ドクターHの事件簿

この事件簿は、H7〜H18の間に若気の至りで書いたものです。今から思うと恥ずかしい思いですが、30代医師の体験談をその時の思いでつづったものです。不快に感じられる文章もあると思いますが、ご了承ください。<アラ50となったドクターH>

 この事件簿は、田舎に住む医者が「診療所がこんなに刺激的とは思わなかった」という趣旨で作っております。ただ患者さんの家族などで不快に思われる方がおられるかもしれませんが、その時には遠慮なくご指示下さい。・・・一例一例が貴重な経験で、人間のすばらしさを感じ感動の連続です。医者の仕事ぶりを皆さんにちょっとでもわかってもらえればなあ・・と思っています。(平成11年7月19日 畑野) 


恐怖の検屍

 検死(検屍)とは、異状な死体のあったとき、その死因について警察とともに医師が死体の検案を行うものである。本来は検察医が行うが、田舎では地元の医師が引っぱり出されることが多い。私などは生きている人を診るのには慣れているが、死体を見るのは好きでない。

平成9年3月○日
 今日も、珍しい、こわい経験をした。本日は休日急患診療所の当番であった。昼2時に警察から電話があり、57歳男性が自宅で死亡しており、検死をしてほしいとのこと。4時半まで行けないと言うと、それでも結構ですと言われた。嫌な予感・・・。他の先生は休日のため、つかまらないようだった。
 4時半、警察の車に案内されて隣町の現場に行くと、刑事に「先生、もう大分たっているんですよ」と言われた。「一人暮らしで1年間誰も会っていない、電気もガスも止められていて、水道も去年の6月以降使っていないんです。

    「エーそんなこと聞いてないよ〜」。泣きそうになった。

 ギャ〜!! 映画で出てくるゾンビそっくりの、ミイラになった死に顔が仰向きにこちらを見ているではないか! 映画ではない、これは本物じゃ〜!  デジタルカメラを持っていたけど、とても写す勇気がなかった。
 刑事「先生、検死しますが、見てもらっているだけで結構です」。
 私「も、もちろん・・・。あ〜今日は寝られませんわ〜」。
 顔は褐色から灰色で、半分ぼろぼろに砕けており、ふとんをのけると、死んだウジ虫がぼろぼろ落ちてきた。皮膚は黒く固まっており、肺や内蔵は穴があいて空洞のようだ。近づく気が起こらない。
 刑事「家族は去年の3月に最後に会っています。ノイローゼ気味だったようで、窓は閉め切っていたようです。春から夏に死ぬと普通は腐るのですが、衰弱がひどかったのでしょうな。ミイラ化しています。顔は崩れていますが。事件性はありませんので、死亡推定は去年の5月頃でどうでしょう?」。私、うなずくのみ。
なるほど、死亡前衰弱して皮膚が乾燥していると、ミイラになるのですね。

 それにしても、  ホラー映画より恐ろしい「現実」!

雪崩事故

平成9年1月×日
 せっかくの日曜日がだいなしだった。
 午前10時、重症患者の往診が終わったところで、ほっと一息入れようと思っていた矢先、杉山先生から電話「Oスキー場で雪崩があり、人が埋もれたらしい。待機していてほしい」とのこと。とりあえずお茶でも飲もうと思っていると、救急車の音が近づいて来るではないか。 ピーポーピーポー・・・
 げっ!! お迎えが来てしまった。

 これは大変なことになった。消防隊員の話では、一人が意識不明の重症、数人の軽症患者がいる模様、まだ雪に埋もれているかもしれないと。杉山先生が既に救助に向かっている。

 現場到着、重傷の26歳女性は、私の到着と入れ違いに杉山先生に病院に送ってもらったが、30分以上雪に埋もれていた。スキーに来ていた救命救急士や看護婦によりCPR(蘇生術)が施されていたが、自発呼吸が出ず、人工呼吸したまま運ばれていった(病院まで救急車でも1時間)
 私は、数人の軽傷の患者さんのバイタルをとったり、点滴をしたり、病院に行くよう指示したくらいでたいしたことはできなかったが、まだ人が埋もれているかもしれないという緊張感で疲れた。残る1台の救急車は、重症患者が出た場合に備えて待機しており、軽症の人は使えなかった。警察・消防による捜索は午後4時までかかり、新たな怪我人はなくやっと帰ることができた。
 それにしても、2000人もスキー客がいると、中に医師も看護婦も救急救命士もいることに感銘した。彼らは必死に救助活動をしてくれていた。
 1)果たして、私がその場にいたら、救助をしていただろうか?  ・・・う〜ん、冷や汗
 2)救急車は2台、重症患者に1台、残る1台を誰に使うか? ・・・難しい選択だ


 数日後に、亡くなられた女性に心からご冥福を祈ります。



スキー場受難

平成8年12月○日
 日曜日、一人で救急の患者さんを診ていたところ、Iスキー場より電話「患者さんを見てほしい。待機していてほしい」。診療所に来るものと思い「いいですよ」と言って、診察を続けていたら「すぐスキー場まで来てほしい」と電話。「冗談じゃない、点滴している患者もいるのにすぐに行けるわけない。救急車を呼んでくれ!」と断った。
 気になったので、後から消防署に電話したら、「救急車で行きましたがもう死んでるし、検死をお願いします。すぐ警察を先生のところによこします」。

   電話するんじゃなかった! 検死なんて一番割に合わない! 
 警察が迎えに来て、一緒にスキー場に向かった。雪を作る機械(大きな建物)の中で、24歳の男性が胸を機械に挟まれて死んでいた。まだ温かさが残っている。「良かった、きれいな顔で」。
 警察の事情聴取が長く、ぶらぶらして2時間ほど待っていた。男性は警察官らが10人がかりで機械より運び出し、検死が始まった。分厚いジャケットを身につけていたので、見た目の感じは美しく、幸いであった。しかし、胸は押すとぐしゃぐしゃ、胸を挟まれ即死の状態であった

 突然機械が動きだし、この人は何を考えて死んでいったのだろう? どんな夢を持っていたのだろう? 自分より若い人だけに心が痛む。    
              ご冥福を祈る。合掌



99歳、穏やかな死

 慢性の患者は、家で最期を迎えるのが一番である。病院では「患者」としか扱われないが、家では「お父さん」「おばあちゃん」といった「人間」として家族に迎えられるから。私たち医師は、人間として生き・死んでいく最期の晴れ舞台の演出家でもある。

平成○年○月○日
 秋まで畑仕事をしていた99歳のK婆ちゃん。豆の木を抜くのに精が出すぎて、倒れてしまった。それ以来寝たきりで、もともとあった腎不全がひどくなってしまった(BUN 166, Cr 7.2)。それでも持ち前の生命力でぶり返し、年末には一時回復(BUN 60, Cr 3.2)したように見えた。正月はもたないと思っていたのに。

 2月より再び寝たきりの生活、介護するのも70歳代のお嫁さん。床ずれができたので、エアーマットを引いたが、清潔はあまり保てなかった。それでもKさんは、ほ乳びんをくわえてお茶を飲んだり、頭はさえていた。

 毎週往診していたが、先日デジタルカメラを持っていった。診察の後、「Kさん写真撮ったるわ」と言うと、「ちょっと待って、準備する」と苦痛の顔を笑顔にしてくれた。帰ろうとすると「写真おくれ」と。・・・しっかりしてるやん! これならもうしばらくいけるかなと思った。

 翌週、往診すると意識がなく、血圧 40、眼は上転していた。「Kさん、写真を大きく引き延ばしたよ〜。シミも消しといたわ、目も光らしといたし・・」と言うも反応なし。家族に「もう今日中でしょう」と言って帰ったが、それからなんと立ち直り、姉妹に「(末期の)リンを鳴らしてくれ」と言ったそうな。20人くらい集まっていた親族は「気が早い」と大笑いしたらしい。
 その後1日もって、Kさんは亡くなった。朝5:30 死亡確認に行くと、私の撮った写真を寝床のふすまに貼っていてくれた。訪問したとき、もう30人くらい集まって葬式の相談をされていた。
    ・・・いい亡くなり方だった。   合掌


お尻からキシメン(私は手品師?)

 医師の仕事は、きれいとは言えない。おしっこやうんちを触るし、垢まみれの体も、水虫・たむしも触らなくてはならない。お尻から固いうんちをほじくり出す事もある。でもお尻からサナダムシを引っぱり出したことのある医師は少ないのではないか?
           長さ4メートル
平成○年○月○日

 ある患者さん(60歳男性)が、「先生、こんなんが私のお尻から出てきました」と言って、瓶にはいったキシメンのようなものを持ってきた。ギェー! 寄生虫やんか〜。 幅1cm,長さ70cm,厚さ1mmのサナダムシであった。

 早速医学書で調べ、寄生虫に詳しい先生に問い合わせてみた。サケ・マスにいる広節裂頭条虫というムシであった。1日に20cmも成長し、出てきたのはムシの一部で、まだ本体はお腹の中に残っているらしい。このためサナダムシ捕獲大作戦を計画した。
 患者さんの鼻から細いチューブを十二指腸まで入れ、そこからガストログラフィンという造影剤を入れる。サナダムシはこの造影剤が嫌いなので肛門の方に逃げてくる。そこを捕まえようというわけである。 

 作戦は決行された。確かに造影剤を入れるとムシが動いてるのがレントゲンで見える。そして下剤をどんどん入れる。患者さんは何度かトイレに行くが、なかなかムシは出てこない。どうしようか思案しているとようやく「出てきた!」との叫び。急いで行くと、和式のトイレでしゃがんでいる患者さんのお尻から、キシメンのようなヒモが垂れているではないか! 早速ゴム手袋をしてキシメンを引っ張る。キシメンは逃げようとお尻の方に入っていこうとする。それを捕まえて、ちぎれないように慎重に引っ張っていった。気持ち悪〜。

 長い! 1m引っ張っても2m引っ張ってもまだ終わらない。キシメンも逃げようともがいている様子。気持ち悪い・・・トイレに吐きそうになるが、ここであきらめては意味がない。幅2cmあったキシメンは1cm,5mmと次第に細くなって、長さ4mくらい出たところで、最後にちっちゃな頭が出てきた(頭が出てきたら成功)。

患者さんには感謝された。でもしばらくソーメンは食べられんかった。


「息が止まる〜!!」

 時々、電話の向こうから「息が止まる〜!」と言う叫び声を聞くことがある。でもどんなに急いでも、患者さんの家に着くまで10〜15分はかかってしまう。こんなこともあった。

平成○年○月○日

 名神高速を走らせながら携帯電話が鳴る「先生〜、息が止まる〜!!」。

 患者さんは69歳女性、十二指腸癌で2年前に手術をしたが、既に手遅れだった。それでも病院の外科の先生のおかげで、これまでもってきたのが不思議なくらいだった。1カ月前より通院ができなくなり、診療所から往診をし、週2〜3回点滴をしていた。痛みはなかった。しかし著明な貧血による息苦しさがあり、3日前より酸素ボンベを持っていって酸素を吸入させていた。

 その日は日曜日で大津で学会があったため、(連携している)杉山先生も一緒に参加していた。午前11時に電話、「痰が取りにくくて息苦しそう」と姪である看護婦。「酸素の量を増やし、吸引器で痰を吸引するよう」指示。午前の発表が終わり、名神高速に乗り込むと同時に携帯電話から先生〜、息が止まる〜!という看護婦の叫び。急いで高速をとばしたが、八日市辺りで「息を引き取りました」との電話。・・・間にあわんかった・・・(涙)

 患者さんの家に直行したが、亡くなった後だけにバツが悪い思いだった。幸い家族は得心されていて、いたく感謝していただいたけど。


誤診(ごしん)

平成9年4月○日

 土曜日の夜8時痴呆(ぼけ)で診ている患者の奥さんから電話があり、夫が震えているから診てほしいとのこと。高齢者が急に震えるのはたいがい熱が出ているせいなので、風邪か腎盂炎くらいだろうと思って診察をした。

 患者本人は痴呆のため、話しが通じないので妻に簡単な経過を聞きたが、咳を少しするくらいであまり他の症状はわからなかった。熱を測ったらやっぱり38.3℃、喉は赤くないしリンパ節の腫れもない、胸の呼吸の音も正常そうだ。尿は異常なし。「風邪でしょう」と言って薬を出して帰した。

 月曜の朝6:30電話。「寝てばかりで、おしっこが一昨日から全く出ていないんです。往診していただけないか」と。風邪薬によって膀胱の出口が詰まったのだろうか?と考え、往診した。すると意識がはっきりしない、おかしい。熱は38.1℃。下腹部は張っていないので、膀胱が詰まっているのでもなさそうだ。食事や水分は入っていない。呼吸の音は頻回だが肺炎の音はしない。・・・(本人のため病院のため)ぼけている人は入院させないというのが私の方針で、とりあえず脱水の治療のため点滴をして様子をみることにした。「また夕方きます」といって帰った(もちろん採血もした)。肺炎ではないと思った。

 昼1時、電話「やっぱり尿が出ません」と。まだ外来患者がたくさんあったので、「意識がはっきりしないのが気になるし、入院させましょう。」と話した。幸いなことに、市立長浜病院は<オープンシステム>の病棟があり電話1本で入院させてくれる。私は電話の指示と紹介状のファックスだけ。救急車で入院させた。

 夕方、朝の採血のファックスが届いて、その炎症のひどさにびっくりして病院に電話したら、「容体が急変し、集中治療室へ行きました」とのこと。ひぇ〜。主治医からは「ひどい肺炎です。家族には今日が山と申しました」と。・・・え〜まさか肺炎とは思わんかった!(ショック)

 痴呆のため症状がわからないこと、時間外受診や往診でレントゲン検査ができなかったこと(しなかったこと)、聴診器では肺炎の音がしなかったこと(重症すぎて音がしなかったのだが、腕が未熟だと猛省)などのため、誤診していた。

 それにしても入院させていなかったら、最悪の状況になっていたかもしれないと考えると・・・ニアミスだった! 冷や汗! オーマイガー!


送り迎えつき診察

平成9年4月○日

 「先生、苦しい〜。助けて〜な!」午前0:30 電話が入った。一人暮らしの老人Sさん(79歳)からだ。気管支喘息(ぜんそく)で診ているが、こないだ交通事故で足が不自由になり、ときどきヘルパーさんに送ってもらって、通院している。今回は喘息発作が出ており、電話越しにゼーゼーと苦しそうな息使いが聞こえる。

 ・・・診察に来て欲しいが、足が不自由で松葉杖では来ることができないし、この深夜ではヘルパーさんも使えない(田舎ゆえタクシーはまず無理)。救急車で病院に行ってもらおうか? 往診しても、吸入・点滴・酸素が必要になりそうだしやっかいだな〜。しようがない、「車で迎えに行くので、道ばたまで出ていて下さい」

 車で迎えに行って、診療所に連れてきて診察(ボクはタクシーやないぞ! と心で泣きながら)。やっぱり喘息発作。予定通り吸入・酸素投与・点滴を行った。点滴の間2時間くらい、こうやってホームページを書いたり、診察台の上で仮眠を取ったりする。午前3時に終了!

 「あ〜あ、明日はせっかくの休みなのに、割にあわないな〜」とぼやく私でした。


病院から紹介されたチョー重症

 重症患者は、普通は家から病院に紹介するものですが、近頃は病院から在宅に紹介されるようになってきました。でも、こんなのあり!?

平成9年2月○日

 患者(83歳女性)の娘が病院からの紹介状を持って、相談しに来た。脳梗塞で意識がなく、IVHという点滴が首から入っている。尿の管も入っている。床ずれが出来ている。病院からは、入院後6カ月たったし退院してくれと言われたらしい。娘:「私ではよう面倒みきれん」と不満たらたらだった。

 退院予定日は、あいにくの吹雪で、私は退院は延期になると思っていた。が、退院したと電話あり。娘は患者が乱暴に車に乗せられるのを見て、かなり怒っていた。「もう病院には連れて帰らない」と言った。

 診察してみると、なんという重症! 意識はない。血糖は400mg/dlというべらぼうの高さ。血液は正常の半分以下という貧血(Hb 5.3g/dl)。腎不全と脱水(BUN 166, Cr 2.7, Na 166)。背部の広い範囲に床ずれ。とりあえず水を補給しようと、胃にチューブを入れたら、真っ黒の血が吹き出してきた!。「ゲッ、出血してるやん。これは死ぬで!」。病院からの紹介状にはそんなこと記載がない。

 家族に病状を説明したところ、「病院は嫌! でも何とか助けて欲しい」と・・・。輸血をしたり、止血剤を使ったり、グロブリンを点滴したりして、しばらくの間、朝・昼・晩と往診した(レセプトは1日1回で請求)。・・・でも結局6日で亡くなられた。家族には、納得してもらえたと思う。

 病院が忙しいのも分かるし、経営のことも分かる。でも、入院直後から退院計画を立て、病状を安定した状態で帰してもらえないだろうか? どっちが病院かわからない。(注:こんなケースばかりではないのだが)


坊さん、ちょっと早すぎや!

患者が亡くなったら、坊さんよりも早く患家に到着すべし

平成●年●月●日
 82歳のおじいさん、多発性脳梗塞で、うまく歩けない、うまく食べることができない。病院にしばらく入院していたけど、家に帰りたいということで、点滴(中心静脈栄養)をしながら帰ってきた。私と看護婦で、毎日訪問して点滴の管理・本人の状態チェック・家族へのサポートをしていた。

 それでも、点滴が気に入らなかったらしい。ある日抜いてしまった。もう一度入れようかと考えたが、本人・家族とも望まず。鼻からチューブを入れて、それで栄養剤を入れようとしたが、やっぱり抜いてしまう。本人も家族も来るべき日(死期)を悟っていたように思う。

 その日は日曜日だった。朝往診して、「もう間もないでしょう。亡くなったら携帯電話に連絡して下さい」と言って帰った。それから私は車で40分離れた実家に帰った。夜頃連絡があるだろうかと思っていたら、夕方電話があり、「亡くなった」と。「すぐに行きます」と言って患家に急いだ(高速を使って30分で)。

 ぎょへー! ぼ、坊さんが参ってるやんけ! ちょっと早すぎるんちゃう? まだ死亡診断してへんのやで〜! 

 坊さんがお経を読み木魚をたたいている、近所の人が喪主にお悔やみの言葉を言い、仏壇にそろってお参りしている。そんな中で私は、瞳孔散大・対光反射なし・自発呼吸なし・心拍なし・・・と確認し、「残念ですが、ご臨終です」と言っているむなしさ・・・体験した人じゃないとわかんないだろうなあ。 



 ミイラの作り方

ミイラというのは、古代エジプトや中国で見られるものと思っていた。まさか自分の目の前でミイラが作られ、そしてそれでも生きてるとは! 人間てすごい!

平成8年●月●日
 そのお婆さんは91歳、6年来の脳梗塞の後遺症で、痴呆・意欲低下・四肢の拘縮が進んでいた。何とか会話ができる程度で、嫁が献身的に介護されていた。私たちは、往診による管理、訪問看護ステーションによる入浴介助、理学療法士によるリハビリを行った。食事は流動食しか入らなくなっていた。

 3月より右足の血行が悪くなり黒くなってきた。そして見る見る間にひからびてきた。流動食もむせるようになったため、家族に説明し希望を聞き、経管栄養を始めた。また血管を開く点滴も併用した。それでも黒くなった部分はだんだん上の方に上がっていった。

 3月下旬、私は研修でオーストラリアに9日間行っていたのだが、その間、診療所看護婦による足のケア、吉槻診療所杉山医師の往診、訪問看護ステーションからの訪問が毎日行われた。私はてっきりもう亡くなっているかと思っていた。

 ところが4月に帰ってきて、生きていたのだった。スタッフの手厚い治療・看護により。<驚き!> 足は杉山先生の治療で、ふくらはぎより下で完全に乾燥しミイラ化していた。しかも「両足が痛い」などと本人はしゃべっている。意識レベルもやや回復している。人間てすごいな〜と感激した

 その後しばらくは良かったのだが、残念なことに(というか当然な経過なのだが)、5月に入り肺炎を来たし患者はお亡くなりになられた。

 こんな治療は、行うべきでないという人もおられると思う。最期まで在宅で(本人の意思がうまく取れなかったが)家族が十分に納得した治療・介護を・・・と思っていたらこんな経過になった。


こわい往診

「息が止まりそう! 早く来て〜」と言われると、急がざるを得ない。たとえ大雪でも。
平成9年2月●日
 91歳の女性、老衰の状態で食事が全く入らず、家族の希望で毎日点滴を打っていたが、これがまた難しくて大腿静脈を使ったりしていた。その日は、「もう今晩か明日くらいでしょう」と話して帰宅した。
 積雪は80センチ、その晩はめちゃくちゃ寒かった。午前0時30分、患家より電話「息が止まりそう! 早く来て〜」という悲鳴。(冷静に考えれば、もう末期なので急ぐ必要もないのだが) 急いで行かなきゃ、と外に出たものの、寒さが厳しー! 患家は県境にあり、農道をとばして10分。しかし農道は坂が多く、自分の身の危険を感じた。
 そのため坂の少ない国道365号を走ることにした。道はアイスバーンになっている。冷や汗も凍る気分で急いだ。途中でトラックが溝に落ちて止まっていた、ワーオ!
 結局着いたときには、既に息が途絶えていて「ご臨終です」と言って、帰路についた。体は冷え切ってしまい、神経は高ぶってしまい、朝まで眠れなかった。

寒い往診

平成7年12月●日
 往診していたところ、ポケベルが鳴り出した。診療所に電話すると「伊吹山1合目で胸を苦しがっているから往診してして欲しいそうです」とのこと。「救急車呼んだ方がいいんちゃう?」と言うも「待っています」と。・・・そんな〜 (T T)
 すぐに車で1合目に行こうとした。エッ!! 道がない! 雪で林道が消えていた。どうやって1合目に行くんや? リフトしかないやん、ということでリフト乗り場の人に「かくかくしかじかなので乗せて!」と頼んだ。「金は払わんで〜」「ついでにジャケットと長靴貸して!」 
 看護婦さんと一緒に往診鞄と心電図を持って1合目にGO! 患者は確かに左胸から左腕を痛がりメチャ苦しんでいる。「病院は嫌や!」と(酒を飲んで)わめいているが、無理矢理病院に電話し、救急車を手配して連れていくことにした。苦しむ患者を2人がかりでリフトに押さえつけ、麓まで降ろし救急車に乗せられて行った。 
なかなかリフトで往診した人はいないやろね〜。それにしても寒かった! 
   
PS. 患者の痛みは白ろう病が原因だった。

ターミナル医療

 無床診療所なので、高齢者の医療が多い中、たまにガンの末期の人を診ることがある。本人と家族が望むのであれば、できるだけのことをしてあげたい。
平成10年●月●日
 60歳の女性、2年前に膵臓癌(すいぞうがん)で手術をしたが再発し、助かる見込みはなかった。家族は家での治療を希望した。本人は「ガン」とは告知されていなかったが、家での治療を強く希望した。9月に退院。 
 お腹や背中の痛みに対しては、モルヒネの飲み薬をどんどん使用した。この頃は痛みが取れてどんどん楽になっていくので喜んでいた。しかし12月より、痛みがひどくなって、真夜中に往診して麻薬の注射を打つことが多くなった。本人が最もつらいが、私もつらい(明け方4時の往診、1月1日午前3時の電話など、正月は毎日往診で酒も飲めない)。
 1月からは、腕に点滴をして、そこからモルヒネを24時間持続して注入するようにした。痛かったら点滴を早めて、痛みがなくなったらゆっくりにする。・・・これ以来、強い痛みがなくなり深夜の電話もなくなりほっとしていたら・・・腕の血管がつぶれてしまった。えーん、どうしよう?と思っていたら名案! 中心静脈という太い静脈にカテーテル(管)を固定し、そこから24時間持続点滴にした。・・・作戦成功、本人も家族も痛みから解放され、私も週に1回の往診だけですむようになった。
 3月に入ると、次の問題。胸に水が貯まり、呼吸困難が現れた。入院か自宅か聞いたところ、これまで通り、家での療養を希望された。今度は酸素濃縮器を業者に持ってきてもらって、在宅酸素療法を開始。
 4月に入ると、体はパンパンにむくみ、食事も入らなくなった。往診の後、患者から「先生・・・」と呼ばれた。(「どうして良くならないのでしょう?」なんて聞かれるのだろうか)と冷や汗で振り向くと「先生、ありがとうございました。看護婦さん、ありがとうございました」。・・・怒りや不安ではなく、現状を受け入れておられる様子に、ショックを受けた。
 その1週間後に、家族に見守られて安らかに永眠された。ご冥福をお祈りします。

 寂しい死

 一人暮らしの人の場合、寂しい死に方をされることが多い。検死をするのも、やはり一人暮らしのケースが多い。
 また、年末年始は看護婦や事務員がいないため、医師が一人で救急患者さんを診なくてはならず結構忙しい。医師法には「正当な理由がない限り、診察や検死を断ることはできない」とあり、仕方がない。でもやっぱり検死は嫌だ。
平成●年12月29日
 午後8時30分。年も押し迫り、夜になってくつろぎかけていたその時、電話が。「消防団ですが、先生いらっしゃいますか? よかった。人が亡くなっているんで検死に来てもらうよう警察から依頼がありました。すぐ来て下さい」。
 エッ〜、ウッソ〜!
 行くと、既にたくさんの区民が集まって大騒ぎであった。聞くところでは、70歳男性、アルコール依存で家族は逃げてしまった。3日前に道で暴れているところを見た人がいるが、2日前に雪が降ってからは、外に出た足跡が全くない。近所の人が、夜回りの消防団に「見てきてくれ」と頼み、消防団員はめちゃくちゃ怖い思いをして家に入ったらしい。そこで死体を発見。
 検死の為私たちは、真っ暗な家の中へ入っていった。裸電球が家に一つしかなく、家の様子がわからない。懐中電灯の明かりで、足下を照らすのが精一杯。
 死体は、ベッドの脇にうつ伏して倒れていた。触ってみると「氷の様な冷たさ」。ちょっと〜、死体を仰向けるの〜? (止めて欲しいわ〜)。数人がかりで体を仰向ける。懐中電灯に照らされた顔は、鼻がつぶれていた。
 死体を隣の部屋に移して、警察と3人だけで検死が始まった。(この寒さはなんなんだ〜!) 暗くて寒い部屋の中、頭の先からつま先まで、丁寧に体を見ていく。直腸温は、気温と同じ 0.5℃。脳出血を疑い、首や腰から髄液を取るため針で穿刺したが、うまく引けなかった。殺人や自殺の可能性はなかった。
 死体解剖を申し出ようと思ったが、地元の人たちが「仮葬場は31日から正月休みになってしまう。どうしても明日葬式にしてくれ」との要請。既に葬式の準備を始めている。親族にはなかなか連絡取れない。・・・ということで、住民からの情報・検死の状態から、脳出血による死とした。 
 すっかり冷えた体で、午後11時頃家に帰った。 どうぞ成仏して下さい。

ドクターH 入院する

 まさか自分が入院するとは! でも入院してみて分かった、医師や看護婦さんのありがたさ。入院というストレスに! 一方世話する立場では、医療関係者ほどタチの悪い患者はいないだろう!
平成●年●月●日
 夜10時、子どもを連れて寝室に連れていこうとしたとき、子どもは私の背中にぶら下がっていた。寝室のドアを握ろうとしたその瞬間、私は意識をなくしていた。 ガ、ガ、ガ、ガ、、「なんちゅう痛いんや〜!」と叫んでいる自分に気がついたのは、間もなくであった。階段の一番下で横たわっているではないか? なぜ? 「首が痛い・手がしびれる・あれっ、起きあがれない!」 
 首を強打したらしい。頸椎のレントゲンを撮りたいけど、自分では動けない・・・。妻に救急車を呼んでもらうことにした。どうやら原因は、子どもに頸動脈を押さえれれて失神したらしい。間もなく、救急車が到着! 恥ずかしいけど、そんなこと言ってられない・・・救急隊にお願いし、担架に乗せられ病院に連れていってもらった。
 病院では、看護婦さんが笑いながらも、処置をしれくれる。当直医がレントゲンを見て、「ひとまずは大丈夫の様です。しかし私は整形外科ではないので、入院してもらい、明日整形外科医に診てもらいましょう」と。少し安心するが、首が痛いし手がしびれるので、やっぱり不安が残る
 救急病棟で、一夜を明かす。「あ〜、麻痺が残って身体障害者になったらどうしよう!」、「明日の診察はどうしよう!」、「子どもたちが可哀想だなあ、妻に迷惑かけるけど、ちゃんと僕の面倒みてくれるかなあ?」などと心配する。
 夜の救急病棟は、ピッピッというモニターの音、看護婦さんのしゃべり声、廊下を歩く音、隣の患者さんの寝返りの音がすごく気になっ眠れない胃が痛い! おしっこが出ない(でも導尿は嫌)!
 翌朝、整形外科の先生に診察を受ける。数人の看護婦さんに抱いてもらってベッドからストレッチャーに移る(このときは看護婦さんはほんと頼りになると思った)。レントゲン室で、首のレントゲンを何枚も撮ってもらう。
 そして、整形外科の先生に、「骨は異常ありません。頸椎振盪(しんとう) でしょう」と言われて、ほっとしたことといったら!! すぐに「ロキソニンとザンタックを下さい」と申し出て(嫌な患者だと思われたことだろう)、1時間後、首の痛みが取れていくではないか! なんとげんきんなものだろう! 医師の「異常ありません」の一言は、何事にも変えられないことがよく分かった。・・・そしてすぐに「退院します」と申し出て、退院できたのであった。
 初めての一泊の入院は、いい勉強になった。患者さんの気持ちが本当によく分かった。もう一泊とか言われてたら、気がおかしくなるところだった。・・・浜●先生、看護婦さん、感謝しています。

何で首吊りなんか!

 私も自分にはそんな自信がない方で、弱い人間だと思う。でも、自殺までしようとは思わないなあ! やっぱり死ぬのは怖いし惜しい。家族も扶養しなければならないし。人生つらいことばかりでなく楽しいこともある。・・・・この頃毎月首吊りの自殺を検死して、「生きることがそんなに辛かったのだろうか」と感じ入ってしまう。私たち医師にも責任があるのかもしれない。
1.平成●年5月●日
 40歳男性。朝ガレージで首をつっているところを発見された。死亡推定時刻は2時間前。以前より椎間板ヘルニアで、腰や足のしびれ・痛みを訴えておられた。診療所にも受診されていた。病院に入院してもあまりはかばかしくなかったらしい。病気を苦にした遺書も残っていた。・・・妻も子どももあり、責任ある仕事も持っておられた方だけに、「なぜ?」と疑問に思わざるを得ない。
 腰痛という目に見えない苦しみだけに、周りの人に理解してもらえない辛さがあったのだろうか? 実際自分もぎっくり腰で腰を痛めてみて、「動けない」歯がゆさは人にわかってもらえず、ただ腰を丸めて歩く姿は職員に笑われるのであった。
2.平成●年6月●日
 65歳女性。早朝家のお風呂で首をつっているところを発見された。特殊な肺炎で、ずっと病院に入院しており、3日間の外泊中であった。家族の言葉では、外泊中機嫌良くされており、特に変わった様子はなかったらしい。ただ入院中にうつ状態になったことがあるとのこと。遺書はなかった。
 この女性は、特殊な肺炎で、酸素療法を続けておられた。入院生活が1年以上と長引き、薬の副作用との戦いもあった。普段は一人暮らしなので、現実問題として退院は困難であった。 お気の毒だと思います。
3.平成●年6月●日
 80歳男性。ガレージで首をつっているところを1日以上たって発見された。独居老人で、目など体の調子も思わしくなかったらしい。死亡当日の朝は胸が苦しいと言って、病院にかかって点滴してもらっていた。遺書は、体調の悪いことを苦にした文面であった。
 いずれの方も、私が主治医ではなかったので、その心を十分理解することはできない。いや主治医でもわからなかったから自殺という不幸な道を選ばざるを得なかったのだろう。心の苦しみを和らげてあげられるカウンセラーの様な人が側にいなかったのが残念。ただただ、上記の方々のご冥福を祈る。
 
「自殺した人は悪い」「家族の迷惑も考えんのか」というコメントを新聞などで見るけれども、本当はタイミングの問題で、「魔がさした」としか思えないのである、私には。

木からぶら下がっているではあ〜りませんか

平成●年7月○日
 朝5:40、警察から電話。「変死体があるので検死をして欲しい。我々警察も現場に向かっています」とのこと。着替えてすぐに現場に向かうが、警察も誰も来ていない。誰もいないので、どうしようか迷っていると、隣の人が出てきた。
○○さんのお宅はここですよね」と聞いてみると、
「先生、そら、先生の後ろの木の下におられますよ」。・・・・・・・・えっ? 振り向く・・・

わ〜お! 首をつったまま、木からぶら下がっているじゃあ〜りませんか!  鳥肌がタチタチ!! 寒〜

 死体をぶらぶらさせたまま、30分ほど近所の人と世間話をしていると(・・・警察が来るまで触われないので)、ようやく警察がやってきた。ロープを外し家の中に入れ、一緒に検死を行った。死亡推定時刻は4時間前、自殺と考えられた。
 夢にでてきそう・・・成仏して下さい。南無阿弥陀仏。

これぞ心眼 

年を取っても、心はしっかりしているお婆ちゃんに会って、心が洗われる思いがした。

平成10年8月●日
 99歳女性、足腰が弱ってベッドに寝たきりである。目が悪くなって周りもよく見えないらしい。先月から訳あって往診することになった。体は不自由であるが、99歳と思えないくらいしっかりとした口調で話をされる。私たちの訪問にも、いたく感動していただいている。

 「先生、私にとって、般若心経を書くことだけが生き甲斐なんです。目が悪くなって周りは見えなくなりましたが、般若心経だけは見えてきます」と。

 ベッドのテーブルの上に筆で書かれた般若心経が何十枚と置かれている。私の顔さえ見えない(目の前に出した指が見えない) お婆さんが、こんなにきれいな字で半紙に写経しているのを見て、本当に感動した。

 そして更に感動したことに、般若心経の最後には通し番号がついていて、9,855枚目と書かれてあった。

お〜! これぞ心眼というのだろうか

追記:平成10年9月16日、念願の1万枚。

平成13年3月、無事に101歳の誕生日をお迎えになりました。おめでとうございます。般若心経は12,778巻となっています。ますますお元気でお過ごし下さい。
(その後病院に入院され、お亡くなりになりました。極楽に救われていらっしゃると思います)


総入れ歯はどこへ行った?

平成●年●月●日
 82歳脳梗塞後遺症のお爺ちゃん、症状が徐々に進み、しゃべれなくなっている。お婆さんと二人暮らし。お婆さんから電話がかかってきて、「お爺さんがアップアップしている。食べ物を詰めこんだんやろか? それに入れ歯が今朝からないんや、お爺さんが隠してもたらしい」と。・・・よく分からないが異常事態らしい。とりあえず、社協にお願いして患者さんを診療所まで運んでもらった。

 診察すると確かに苦しそうにしている。舌が異様に腫れている。喉の奥を見ても特に異物は見えない。まさかまさかそんなことはないだろうと思ったが、念のためレントゲンを撮ってみた。アッレ〜

 まさかまさかのレントゲン。総入れ歯が喉に引っかかっているではないか! 差し歯くらいなら分かるけど、総入れ歯って大きいよねえ??

 マッキントッシュという器具を使って、喉を開けさせると、奥の方に総入れ歯が詰まっている。大きなピンセットを使い、何とか総入れ歯を取り出した。(その後は、喉の浮腫で呼吸できなくなる可能性を考え、ステロイド入りの点滴でしばらく様子を観察)。幸い後遺症は残らなかった。

 患者さんは総入れ歯のへこんだ隙間から、何とか息をしていた。入れ歯の詰まり具合によっては即死だったろう。

 飲み込んだ患者さんも患者さんだけど、お婆さんも呑気だよねえ。


決死の往診

平成10年8月●日
 毎回どうも往診するのに気が滅入る家がある。80歳代の老人夫婦の家だが、ほったて小屋よりもひどい作りで、家に入るにも木の戸を両手で持ち上げ、少しづつ動かさないと開かない。家に入ると、いろんなサイズのたらいがいくつも置いてあり、汚れた水が貯まっている(雨漏りする) 。家は既に傾いている。家の中からあちこちが見える。

 今日も決死の思いで家に入った。座布団をすぐに自分の下にたぐり寄せ座る。問診し、血圧を測り診察する。お腹を触るときに、右足を座布団から少し出したのが悪かった。か、か、痒い〜。 ノミなのかダニなのか分からないが、刺されてしまって、痒い〜。

 早く夏が過ぎて欲しい〜。  でも冬は冬で、風通し良すぎて寒いかなあ? ・・・この往診は1年以上続いたのであった。


救急隊員さん見つめないで!

平成10年9月○日

 71歳のご主人が倒れて、歩けない、しゃべれないとのことで午後1:30往診した。見れば、呼吸は荒く、右半身完全麻痺、左半身もほとんど動けない、呼びかけると何かしゃべろうとするが、もごもごとするだけ。血圧 156/74, 脈拍 100, 酸素飽和度 89%,瞳孔は左右対称。・・・おいおい脳卒中やないか! 聞けば朝6:00から頭が痛いと言って、一度倒れているらしい。・・・なんで今まで放っておくんじゃ〜! 12時まではまだ左半身は動き、言葉も聞き取れたらしい。・・・症状が進行してるやないか〜!

 すぐにS病院救急に連絡、その後消防署に連絡し、救急車を要請した。すぐに来てくれて、高規格救急車の中で静脈ラインをとり、心電図モニター・血圧モニター・酸素飽和度モニターをしてもらった。さあ「私は2時から外来だから、同乗しませんが、いいですね?」と聞いたところ、3人の救急隊員さんの「えっ!? 冗談でしょ」という熱いまなざし!! そんな目で見つめないで! ・・・・ということで、仕方なく救急車に同乗して病院に向かった。

 病院に到着、脳外科の先生にバトンタッチして、帰りはちょっとリラックスして、救急隊の方とおしゃべりをした。聞けば今日は救命救急士が休んでいるとのこと、それでだったのかな? あの熱いまなざしは。 でもてきぱきされていましたよ、救命救急士合格間違いなし! 

 午後3時から6時過ぎまで、外来32人。あ〜しんど!


畑へ行く「寝たきり」婆ちゃん

 平成10年9月現在、診療所で定期的に訪問診療をしている患者さんは36人いる。吉槻診療所と連携し、携帯電話による24時間体制を行っている。何かあれば、いつでも連絡が取れるようにし、また訪問した看護婦やヘルパー・保健婦から常に連絡をもらうようにしている。

 中には、歩けないにも関わらず、畑に行き草むしりのできる老人がいる。寝たきりと言ってはいけないのだろうか?

平成10年9月○日
 今日も、Kさんのお宅に訪問する。88歳のKさんは、高血圧・心不全・心房細動という心臓の病気を持ち、平成7年には脳梗塞で右側の不全麻痺を起こしてしまった。行くとベッドに寝ている。Kさんは、麻痺があって歩くことはできない状態である。息子夫婦は働いていて昼間はいない。

私:お変わりありませんか?
Kさん:朝から胸がどきどきするし、頭も痛うおす。
私:顔色もいいし、外出しているの?
Kさん:えろて、えろて、外にはよう行きまへん。

 そういいながらも、もんぺには泥が付き、爪も真っ黒。近所の老人からの情報では、天気のいい日には、はいずって縁側から外に出て、畑まで行き、畳半畳くらいづつ草むしりをしているらしい。
 2年前に退院したときよりも、元気そうなその体は、這って外出し、好きな畑仕事をするという<生き甲斐>が作りだしたものだろう。

 一度入院すると、もう再び入院をしたがらない患者さん。生き甲斐が家にあるのなら、できるだけその思いをかなえてあげたい。私たちは、在宅ケアに対して最大限の努力をしなければならないと思う。
 
でも、自分が半身麻痺したら、畑なんて行くかな?・・まず無理だろう。さすが明治の人。


小渕総理大臣から賞状が

いいなあ、総理大臣から賞状と記念品がもらえるなんて。
 現在滋賀県には66人の100歳以上の方がいる。伊吹町は2人。

平成10年9月○日
 100歳のお婆ちゃん。3年前にヘルペスを患ってから、往診しているが、だんだん呆けてきた。今ではほとんど寝たきりで、おしっこや大便も言えなくなっている。それでも食欲はぼちぼちあり、お風呂も2日に1回は息子夫婦が入れている。耳が遠くて大声でしゃべっても聞こえず、気に入らないと怒りだしてしまう。

 今日、往診したが、起き出して「よう私のために、遠いところを来てくださった」と挨拶してくれる。この頃は調子が良くて、昔の軍歌などを4番くらいまで歌ってしまうとのこと。そして、部屋の壁には小渕総理大臣より100歳を記念する賞状が飾ってあった。ついでに記念品は、銀杯と重箱だそうだ。

 ・・・うまく年を取りたいもんですね。


よ〜し、良くなってきた

 私たちの仕事は、病院から帰ってきた人を、入院中よりも良くしてあげることだ。 病院であきらめられた人ほど、闘志がわく。

平成10年9月●日
 65歳の男性、多発性脳梗塞のために徐々に動けなくなり、2月から肺炎のため入院していた。6月に肺炎が治って退院したときには、手足は拘縮してガチガチ。失語症でしゃべれない、嚥下障害で食べられず経管栄養をしていた。

 家に初めて往診したときは、ひどい状態で、ショックを受けたが、週に2回の往診で患者さんの信頼を得るようにし、町の看護婦さんとヘルパーさんに週1回在宅入浴をしてもらう。拘縮がひどいため、マッサージ師に頼んで週3回、拘縮予防のマッサージと理学療法をしてもらう。訪問看護ステーションに依頼して週1回訪問し、食事を試したり、体を起こしたりしてもらう。

 3ヶ月経ってようやく、車椅子に乗り、更に散歩することができるようになった。手足もかなり柔らかくなってきた。アメをなめてごくんと嚥下できるようになった。言葉が出るようになった。
 そして今日、電動式ベッドを購入した(26万円の所、1万円くらいで購入できた)のだが、なんと自分でボタンを押してベッドを上げ下げできるではないか! 感動。

 よ〜し、もっとやったるで〜。


地域医療やりませんか

 思春期のお子さまを持つ方へ、朗報です。安く医者になる方法があります。自治医科大学は、全国の医療に恵まれない地域に<医療の灯>をともすためにできた大学です。各都道府県で試験があり、2名ずつ(3名の事もある)入学しています。学費は全額免除され、毎月5万円の貸与金が支給されます。(当時)

 医師免許を取ると、各出身県の職員となり、病院や診療所に派遣されます。初期研修の後、僻地中核病院・診療所となるのが一般的なコースです。9年間がいわゆる義務年限となりますが、医者過剰のこの時代、逆に言えば、仕事の斡旋まで県にしていただくこととなります。

 もともと田舎の医者をしたかった私にとっては、最高にいい大学でした。税金で医者にしていただいた以上、今度は、人様・社会にお役に立つために一生を捧げたいと考えるようになりました。先輩方の中には、WHOアジア地域のリーダーになられた方もあり、僻地だけでなく、国や世界をフィールドに活躍されています。また北海道利尻島で働いたり、東京都小笠原諸島父島など離島で働く同窓生もたくさんおられます。滋賀県では、僻地といってもものすごいへき地はなく、伊吹診療所くらいですけど。

 患者はもちろんですが、<地域>を診る医師に教育されます。30歳の入学生もあるようですので、興味のある方はいかが?


吐血に冷や冷や

 病院にいた頃は、結構血を吐く人を診てきたし、週に1回は当直が回ってきて救急車がやってくる日々であった。が、診療所に来てからはほとんど見ることがなかった。久しぶりに真っ赤な血を見て緊張した。でもこんなん好きです。

平成10年10月●日

 午前10時、40歳の男性が飛び入り診察。仕事中、急にお腹が痛くなりふらつきが出たとのこと。血圧80mmHg、上腹部に痛みがある、便は真っ黒であった。・・・胃潰瘍だ。

 点滴をし、血圧を上げる。他の患者さんもあるので12時まで点滴でつなぎ、それから内視鏡をする予定であった。看護婦さんに内視鏡の準備をしてもらっていると・・・検査室は血の海になっている。麻酔薬を口に含んだのが気持ち悪くて吐いたら、真っ赤っかの血液だったらしい。周囲を拭いた後、患者さんの口にマウスピースをくわえさせる・・・オー再び血を吐く。緊張しながら、内視鏡を喉に入れる・・・ワーオ、血をゲボゲボ吐くではないか! 600mlくらい吐いた。こらあかんワ、危険や、入院させよ。

 ということで、消防署に連絡し、高規格救急車に来てもらった。    

ありがとうございました、救急隊員さん。救命士さんもいるので、ほんと助かります。

ちなみに、この患者さん、さすがに若いせいか1週間で退院しました。


目の前で息を引き取った

 自分の最期をどう迎えるか? 本人が納得した死に方が最も望ましい(もちろん延命を希望されるのなら、最善を尽くす)。本人の意志表示ができないのなら、家族が納得し満足した最期を迎えられるのがベストだと思う。

平成10年12月●日

 慢性閉塞性呼吸障害(COPD)で、5年間にわたって見ていた患者さん。在宅酸素療法を行っていたが、肺炎になるとは外来(又は往診)で点滴して回復していた。今年8月下血を来たし、病院に紹介。精査で大腸癌が見つかり、手術の準備をしてもらったが、直前に感染症を来たし、寝たきりとなってしまった。

 11月下旬に、退院されるというので病院を訪問した。寝たきりで、かなり四肢は拘縮し、触ると痛がる。中心静脈栄養という24時間持続点滴、導尿用バルーン、酸素チューブと管が3本入っていた。訪問した日は、私に笑顔で答えてくれた(いつもは反応が乏しいらしい)。

 11月末、退院。すぐに往診したが、意識が混濁している。退院3日前より状態が悪くなったと。でも家族は、家に帰ってこられたことを大変喜んでおられた。毎日往診し、病院の点滴メニューを継続しながら、いろいろやってみたが、あまり患者の調子は芳しくなかった。

 前日は、看護婦とヘルパーが入り、体をきれいに拭き、口の中のブラッシングなどをしてもらった。往診すると、目をぱちっと開け、何かしゃべろうとしていた。

 その日の午後8時、電話「口から何か出ている」と。すぐに往診してみるも、胆汁様の胃液を吐き、そのために気管が詰まり窒息していた。「こりゃまずい」と思って、吸引を行ったが、再びごぼごぼ吐き、表情が変わった。心臓マッサージをしそうになったが止め「あかんわ」と家の人に伝え、集まってもらう。その後、すぐに息が弱くなっていった。そして、お嫁さんが患者を抱きながら、奥さんがリンを鳴らしながら、ご主人や孫が心配そうに見ながら、穏やかに息を引き取った・・・。

 この1週間の間、昼は奥さん、朝晩はお嫁さん、そしてご主人・親戚の看護婦さんたちが協力して世話をしてこられた。家族は「家に帰れてよかった」と話し、ある種の満足感を感じておられるようだった。

 急変したため、決して私自身 本意には思っていないが、本人の意識も混濁しており、家族が満足しておられるのなら、幸せないい死に方だと思う。・・・謹んでご冥福をお祈りします。


心筋梗塞やん!

 めったにない心筋梗塞。久々に遭遇したが、なんとかうまく搬送できたわ。

平成10年●月●日

 夕方6時、うつで診ているIさん(77歳女性)から電話。「先生、つい10分前から胸が痛い」と・・・緊急往診。家にはIさんしかいない。家族は隣の婆さん(95歳)の葬式に行っている。おお〜、Iさん、ちゃんと胸を出して横になって寝ているじゃありませんか。早速診察モード

 血圧を測り、聴診、心電図をつける。おっひょ〜! 胸部誘導でST上昇(6mm)。心筋梗塞やん! 冷や汗がにじんでくる・・・ニトロペンを舌下させ、すぐさま病院に電話。循環器医師に待機をしてもらう。消防署に電話、高規格救急車要請。・・そうこうしているうちに家族が、何事?という顔で帰ってこられた。かくかくしかじか、緊急入院が必要だと話すと、家族の表情も緊張モード

 高規格救急車が到着し、酸素吸入、点滴ライン確保、ヘパリン5000単位、キシロカイン100mg静注。一緒に病院まで搬送した。救命士が、病院と連絡を取り、心電図をFAXで病院に飛ばしてくれる。血圧・心拍・心電図・酸素飽和度もモニターできる。
 病院には、循環器の先生がスタンバイしていてくれて、すぐ心カテとなった。ふ〜、私もこれでリラックスモード。(写真は高規格救急車の内部)

 ・・・心カテの結果は、左前下行枝が99%以上の狭窄 → 風船療法(PTCA)→ 金属の網(ステント)を留置をしていただきました。なんと心臓の酵素(CPK)の上昇はほとんどなかったようで、よかったあ!


大雪の往診

平成11年1月11日

 1月8日からの大雪で、診療所にも90cmくらい積もった。今日は定期往診日なので、Iさんちに電話すると「道路はあいています」とのことで往診した。
 さすがに北部の集落は雪の量が違う。1m40cmくらい。県道はあいていたが、一歩集落に入ると雪の壁ご覧のように、屋根を触れるくらいに積もった雪の上を歩きながら、患者さんの家に入っていった。

 別の集落では、車はおろか人さえもやっとの幅20cmの雪道を歩いて患家に向かった。 また車はわだちにはまったり滑ったり、Uターンの時は雪壁にごんごん当たりながら進んだ(雪が柔らかいので傷はつかないんだけど)。9件まわって帰ったら6時。・・・疲れた


娘が危ない?

 医者といえど自分の子供には、冷静さをなくしそうになる。

 平成10年12月9日、4歳の娘に水ぼうそうのワクチンを接種。平成11年1月19日、インフルエンザワクチンを接種。翌20日より右肩に発疹が出てきた(写真)。水疱はさらに広がり、右の肘、左右の首まわり、左の肩、左肘にまで及ぶようになる。22日より38℃の熱、23日には39℃の熱が続いた。娘はこたつにぐったりと横たわるのみであった。妻が「大丈夫?」と聞くも「痛くない、大丈夫」と答えるため、妻は「けなげ」な娘に涙ぐむ。

 おそらく水ぼうそうの弱毒生ワクチン株が、インフルエンザの予防接種を機に、帯状疱疹(ヘルペス)として出現したのだろうと考えた。しかし、水疱の帯が一本でなく、左右にわたり広がり、39℃の発熱が持続するため、自分でも不安になった。(数人の医師にも相談)

 ゾビラックスという抗ウイルス剤を内服させ、持続点滴を始める。家に輸液ポンプを持ち込み、約24時間点滴をしたところ、24日午後よりようやく元気が出てきた。水疱は新たにできているところもあるが、「峠を越えた」ことにホッとする。
 予防接種後に起こった症状であり、他人の子供じゃなく、自分の子供でよかったとも思った。


お婆さんの青春時代

平成11年2月●日
 89歳女性。心不全と、脳梗塞による右半身の不全麻痺で、寝たきりである。定期的に往診に行っている。今日もいつも通り往診に行くと、

「あれまあ、先生。よう来てくれなはった」

と私の手をぎゅっと握ってくれる。その手は柔らかく包み込むようではあったが、表面は皮脂を失いごつごつしていた。私はどきっとして、手を振り払いながら、血圧を測り、聴診をする。

「私は苦労したんや」と話すTさん。

「結婚する前はどこに住んでいたんですか?」

「私は、長浜の和裁学校に行ってたんや。早う結婚してもて、みんなに冷やかされた。ここの生活は、もう苦しいもんやった。」と言うTさんの眼は、娘のようなまなざしに変わっていた。遠い昔、Tさんが若い娘であった姿が、私の眼の前に浮かんできた(白黒写真で)。

「Tさん、また来るわ」と、今度は私がTさんの手をぎゅっと握って、家を後にした。

 自分の知らない人と結婚させられ、長年の辛い生活の中で、楽しかった娘時代のことが鮮やかに蘇っているのだろうか。きっとかわいい娘だったのだろう。


グッドタイミング

平成10年11月●日

 夕方5時50分、会議があるため役場へ出向き、ちょっと雑談していたとき、携帯電話。「先生、5時30分より急に左の手と足がしびれて、しゃべりにくくなりました」と、57歳の女性本人からであった。おえっ!、そりゃいかんわ。「すぐに診療所に帰るから、来て下さい」と話して、診療所に帰った。

 6時20分、夫に連れられて来院。血圧は普段130/80くらいなのに、182/118と上昇。意識は清明で、言葉もスムーズだが、口の左側が動きにくく、また歩けるものの、左上下肢の筋力低下があった。「脳卒中(多分脳出血)」と考え、日赤救命救急に連絡(本人の希望の病院へ紹介することにしている) し、更に消防署へ連絡。紹介状を書き、点滴を取っている間に高規格救急車が到着。心電図モニタリング、血圧モニタリング、酸素吸入をして、病院に運ばれていった。

 その後、病院の先生からは「右視床の18mmの出血」との返事をいただき、リハビリをしていただいた。

 平成11年3月●日、ご本人が車を運転して自宅にいらっしゃり、「とっても早く対応していただいてありがとうございました。救急車もすぐに来てくれたし、病院でもすぐに診てもらえました。ここまで回復できて、本当にありがとうございました」と言っていただいた。

・・・ここまで言ってもらえると、医者冥利に尽きます。(脳出血は、急激に片麻痺を来しますが、比較的治りも早いようです。場所にもよりますが)


救急隊員さん、ごめんなさい

 入院させようと思って、救急車を呼んだんだけど、ピーポーの音でよくなっちゃった?

平成11年4月●日

 ポリオの予防接種のため、いつもより遅れて往診に出た。3件目の家は「今日は朝からえろおす」と訴える89歳のお婆ちゃん。元々心不全があり、脳梗塞もしている。脈は不整で、胸の音がブツブツ聞こえる、少しむくんでいる。心不全の悪化だな?と思ったが、あいにく心電図を持ってこなかった。酸素飽和度も94-96%あるし、夕方もう一度来ますと言って、残り6件を回り、心電図を持って再び往診した。

 「胸がエライの〜?」大声で聞くも耳が遠くてなかなかわかってもらえない。「胸痛い〜?」と聞くも「痛いことおせん」と。酸素飽和度は89%とダウン、やばっと思って心電図を取るが、苦しがって患者さんが動いてしまう。「楽にして〜」と大声で言うも「なんどす?」とかえって動かれて心電図波形が乱れる。
 クソーと思う
ノイズの入った心電図は、胸部誘導でかなりのST低下を認めたが、もともと心肥大があってST低下があるので判断に苦しむ。心筋梗塞?・狭心症?・肺梗塞?・・・なんなんだ〜?

 ニトロをなめさせるも、飲んでしまおうとする。「なめなあかんよ〜」と怒りそうになって言うも、苦しがってうまくなめられない。舌が乾いてニトロが溶けない。
 クソーと思う
ニトロの注射は手元にない。仕方ないのでニトロのシール剤を貼る。

 相変わらず苦しそうに息をする姿を見て、家族に病院へ搬送することを伝える。病院へ電話。消防署へ電話。5分後に救命救急士から電話があり、病状を伝える。「何かはっきりしないのですが、苦しがるのでお願いします」

 ピーポーピーポーが聞こえだした頃、「わしゃ病院へはいかん。楽になった」と急にしらふになる患者さん。えっ!? あれっ、胸の音も楽そう、酸素飽和度も96%をキープ、心電図は50分前よりST低下が少し戻っている。・・・うわ〜狭心症やったんか〜、救急車よんでもたやんけ〜。

 ・・・救命救急士に訳を話し、お帰り頂く。病院にも搬送中止の報告。・・仕方ないか、よくなってくれたから・・。(89歳、脳梗塞・心不全がベースにあり、耳は遠くて話が通じにくい、心電図はノイズが入るし、ニトロの効果が遅い・・・在宅医療は難しい〜!)  注意:もうちょっと若くてしっかりした人だったら当然入院でしょう


「診療所に連れていって!」

 レントゲンは撮ってみるものだと思う。写真は正直である。

平成11年5月●日

 夕方5時、飛び入りで5歳の女の子が受診しました。お母さんが言うには「友達の家で遊んでいて、階段から滑り落ちたらしいんです。すねを打ったので、そりゃ痛いでしょうね。でもこの子が『診療所に連れていって』と言うものだから、念のため連れてきました」と。

 確かに、すねが少し腫れていて痛そう。でも泣き方が尋常じゃないわ。レントゲン撮ってみようということで、撮ってみると、あ〜らまあ、すねの骨(頚骨)が斜めにぼっきり折れているじゃありませんか! これは痛そう! シーネ固定してすぐに病院に行ってもらいました。お母さんは、写真を見て急に青ざめていました。

 普通は医者嫌いの子供が『診療所に連れていって』というくらいだから、よっぽど痛かったのね。可哀想。


最期のお別れ

あなたは、最期をどこで迎えたいですか? 一人一人違うと思います。現状では病院で亡くなる人が半分以上となっています。私なら可能なら『自宅で』迎えたい。

平成11年5月●日

 病気を発見したときには、もう1〜2ヶ月の命であった○○さん。病院に入院しましたが、治療法がなく自宅に帰ってきました。食事が食べられず、痛みも出てきていました。

 病院で中心静脈栄養をしたまま自宅に帰られたので、点滴の管理は私と看護婦で毎日訪問して行いました。輸液ポンプを持ち込んで24時間点滴にしたので、そうトラブルはなかったのですが、アラームが突然鳴ったりして、朝4:30に連絡があったこともありました。1日に4回訪問したこともありました。

 退院直後は、『最期は病院に再入院して・・・』と考えておられた家族も、自宅の方がご本人が楽そうでしたので、『自宅で最期まで見たい』とおっしゃるようになりました。

 休日のその日は、朝6時に電話して「変わりない」とのことで、私は外出しました。昼の間に看護婦が酸素ボンベを持ってきてくれていました。夕方往診すると、意識はなくなり血圧は低下していました。家族はおおかた集まっておられました。

 午後10時に電話があって往診したときには、虫の息でした。あと数分しかもたないと思いました。家族が取り囲み、お孫さんが、ベッドの両方から泣きながら手をさすっていました。私は、息を引き取るまで待っていようと思い、そばで待っていましたら、予想外に2時間待つことになりました。・・・その生命力に驚きましたが、家族と共に静かにお別れを告げることができ、良かったと思っています。

 ・・・入院時に「悪い病気なのでしょうか?」と聞かれ、無言のまま患者さんの眼を見ました。その時に悟っていらっしゃったようにも思います。「先生、ずーっと診ていて下さい」と言われました。ご冥福をお祈りします。


まさかの腸穿孔

平成11年5月●日

 11:00、大久保出張所で診察していると、51歳の男性が腹痛で飛び込んできました。ウンチで力んでから急に痛くなったそうな。下腹を押さえ、かなり痛そう。イレウス・腸重積・虚血性腸炎・虫垂炎・尿管結石などを疑い診察しましたが、ちょっと合わないなあと思っていました。出張所で検査できる道具もなく、鎮痛剤注射(ソセゴン無効、メチロン・ブスコパン静注で効果)し、12時になるのを待って、本所に帰りました。

 検尿:異常なし・・うそ〜! 腹部エコーで両腎正常、イレウス像なし、かすかに腹水貯留・・おかしいなあ? 腹部X線では、腸管ガス像消失。採血で白血球 8200, CRP 0.2 と炎症所見なし・・感染じゃないんか〜!? なんなんや〜??

 12:30、再び痛み出してきました。腹膜炎にしては炎症もないし・・・とりあえず「浣腸して」と看護婦さんに依頼・・よけい痛みが増強。こりゃまずいわ・・・13:00、救急車を呼び病院に救急搬送しました。

 病院では、CT等の検査後、すぐに外科手術となりました。原因はS状結腸という大腸の一部が、便をしようと力んだ際に破け、腹膜炎を併発してしまった為でした。開腹時にすでにお腹の中は膿や便で一杯だったそうです。白血球は2000まで低下していました。敗血症を合併してしまい、一時は危険な状態だったようです。・・・うんちで力んだだけで腸が破けて腹膜炎になるなんて!! 信じられない・・・という教訓的な症例でした。搬送が30分遅れていたら命が危なかった。


救急は面白い

 こんな事書いて、電話がじゃんじゃん鳴ってくるような事態になったら怖いのですけど、救急は面白いです。経過が早いし、推理が楽しい。診療所も、血算・CRP測定器が加わって、小児・循環器・呼吸器・整形・小外科など、かなりの急患にも安心して対応できるようになりました。問題は私一人しかいないということですが・・・

平成11年6月●日

 18:10電話「妻が急に頭が痛いと言い出して」と。すぐに往診しました。途中で橋のたもとにを3匹見つけて「人間より多いなあ」と考えながら患家に到着。患者さんは、60歳女性、急に激しい頭痛を訴えました。意識ははっきりし、麻痺もない。
 これはくも膜下出血? と考え、病院と消防署に連絡。私は救急車とは別に、往診車で病院に向かいましたが、なんと救急車より早く病院についてしまい、看護婦さんと当直医に報告(たねあかし・・・近道=たんぼ道を使ったのでした)

 CT撮ったら、やっぱりくも膜下出血。すぐに脳外科医にバトンタッチとなりました。診断が当たってほっとするも、患者さんには励ましの言葉を言って、病院を後にしました。(レントゲン技師さんが、高校時代のクラスメートで16年ぶりに再会。ちょっと得した気分でした)


「私より5つも若いのに・・・」

 98歳の女性、頭はしっかりされているが、手足が震えるので杖を2本ついて歩かれます。毎週デイサービスを利用し、おしゃべりをしたりゲームをして楽しんでおられます。その女性の近所に、昔から仲のよい友達が住んでいました。

 その友達も、こないだまでは家の中を歩くことができましたし、嫁の目を盗んで畑に行ったりされていました。ところが、今年の夏の暑さで弱ってしまい、めまいを起こし、とうとう畳の上で転んで左腕(上腕骨)を骨折してしまいました。以後、全くの寝たきりとなりました。2週間後、ようやく友達がデイサービスを再開するようになりましたが、おむつ取りとなり、食事も介助でしか摂れません。

 98歳の女性:「あの娘がこんなに弱ってもて・・・。昔から一緒に遊んだりして、元気な娘だったのに、今ではおむつをはめたり、ごはんを食べさせてもらっている。可哀想に、私より5つも歳が下なのに・・・」と同情されていました。

 ・・・でも友達といっても93歳なんですけど・・・


「もうええわ」って言われても〜

平成○年12月末日

 痴呆で老人ホームのショートステイやデイサービスを受けている95歳のお婆ちゃん。痴呆は進行しており、大声でわめき倒し、昼夜が逆転、ベッド柵をしばっておかないと柵を外して徘徊したり転んだりする。

 私は年末で妻の実家(広島)に里帰りしていた。夜携帯電話があり「ショートステイを利用していたが、熱が高くて家に帰された。往診して欲しい」と。その夜は看護婦さんに電話し坐薬を出してもらうよう指示。そして、翌朝急いで帰った。
 年末のため検査会社も休みで採血はできなかったが、高熱、呼吸音はブツブツした音が聞こえ、苦しそう。肺炎の所見であった。

「正月が危ないです」と私・・・
いつも世話をしている苦労の多いお嫁さんは納得していた。
でも里帰りしている患者の娘は、
「なんとか正月はもたして下さい」と。

えっ、まじ? 

 家族の同意を得て、抗生剤の点滴とグロブリン製剤を点滴した。抗生剤は年末年始毎日・・・そして、元気になってしまったのであった。

 正月も過ぎ、娘が帰る時になって「先生、もう正月過ぎたし、何があってもいいです。覚悟はできました」と・・・。今頃そんなこと言われても〜

 そして残されたのは、大騒ぎのお婆ちゃんと、介護に疲れるお嫁さんの姿であった。

数年後の今でも、娘の顔や名前は忘れてしまってとんと無視するが、お嫁さんの名前だけは大声で叫び続けている。


私は男前〜?

 ずっと医者にはかかってなくて、とうとう寝たきりになってしまった90歳のM子さん。初めて家に往診すると、痴呆がひどくて

「あんた誰や? ○○(孫の名前)か?」

と全く通じなかったのですが、薬を出し、定期的に訪問するようになり、デイサービスも利用するようになると、

「お医者さんか? あんた男前やな〜。ほんま男前やな〜。惚れ惚れするわ〜」

と、さしだした手を握りしめてくれます。痴呆が治ってきたのかなぁ? M子さんだけやわ、そんなこと言ってくれる人は! 婆ちゃんとはいえ、私はうれしい〜


うんちが出ない〜

 「ウンチが出ない」これは、結構笑える訴えですが、本人にとっては「しんどい」ことです。ウンチをほじくって何度感謝されたことか!

平成○年○月●日
 Aさん、90歳男性。奥さんから電話があって
「10日間ほど便が出なくて弱っています」と。

 早速往診して診察。なるほど、コロコロウンチがたくさん直腸に詰まっているわ。新聞紙をひいて、手袋をしてキシロカインゼリーをつけて、どんどん便を取り出しました。便汁も飛び出してきますが、気にしない。臭いのもそのうち気にならなくなり、私と患者さんとうんうん言いながら汗を流しながらの共同作業でした。出るわ出るわコロコロウンチ。

 出しきると、臭いのも忘れて、お互いに大喜び!


ウンチの味って?

まさか!ということをする痴呆の人たち・・・。

平成12年○月●日

 老人ホームの看護婦さんから電話。「○○さんが、お腹をこわして下痢が続いているんです」と。

 午後から往診して、事情を聞きました。
「昨日、ご自分のウンチを食べているところを寮母が見つけたんです。昨日から、下痢をしています」
「まさか下痢のウンチを食べてないでしょうね?」
「下痢のウンチではなかったようですけど・・・。食事は食べていらっしゃいます。」「この方じゃないですけど、ウンチを丸めて棚に並べている人もいて、信じられない世界ですよ」

 ゴミ屑を口の中でもぐもぐしている○○さんに、ゴミを吐き出すように言ってから診察をしました。お腹は張っていましたが、ご飯を食べ、便は出ているわけだし、そのまま経過を見るように看護婦さんに話して帰りました。

 あとから他の医師に問い合わせましたが、「便を食べるような方は、胃腸が丈夫でお腹をこわすこともないようですよ」とのことでした。たまたまだったのかな、今回は?

 どんな味がするのでしょう? 翌日の昼御飯がカレーだったのですが、まずかったです。ゲップ!


おお寒〜、おお臭〜

 この世界、うんちもおしっこも垢も、別に気にならず患者さん触っている。でも時々、気持ち悪くなるときもある。

平成○年11月●日

 90歳の男性。ある日ヘルパーさんから電話「○○さんが冷たくなっています」と。でも亡くなっているわけではないらしい。早速往診に出かける・・・が、立派なおうちの玄関を開けても返事がない? まさかと思って離れに向かうと、そこは冷たい風ピューピューの寒い部屋だいたい戸が閉まらない、というより戸がない! 雪が部屋に舞い降りてくる。こんな所に人間が住んでもいいのだろうか? 案の定、体は冷たく、体温計で測ってもエラーで出ない、血圧はかろうじてキープしている。

 老人の冬眠状態! 早速家の人に部屋を暖めるように指示、電気毛布を使うように話す。お願いだから「この人に使う電気毛布はない」なんて言わないで。点滴をして一旦帰った。その夜「入院させなくていいのか?」と家族より電話。「だいたいあなた達がどうしようもないくらい寒い部屋に住まわせているのが悪いんと違うの?」と言いたくなったがこらえて、「年も年だし痴呆もひどいし家の方がいいでしょう」と答えた。

 そして、翌朝往診。

 な、なんなんだ〜、この臭さは! 家の人がビニールシートをはって家を密閉し、ストーブをがんがん焚いていた。これまで畳に染みついていた尿や便の臭いがイッキに部屋中に蔓延していた。臭〜!

 必死で絶えながら診察し点滴をする。その後10日ほど毎日往診して、患者さんはお亡くなりになった。
 家族に悪口を言いまくっていたらしいその患者さんも、最期は「ありがとう」と家族に言い出し、家族も毎日部屋にいるようになった。そして部屋はきれいになっていった。(臭いが蒸発したのも、ヘルパーさんが毎日きれいにしていってくれたのもあろう)

 今日も往診でその家の前を通るとき、懐かしいあの臭いが思い出された。


まさかのスタック

雪の日は、どの道を行くか、選択が難しい。失敗すると・・・

平成12年2月●日

 大雪の日の往診。9件あった訪問診療を半分に減らし、雪の中出発した。もう猛吹雪〜、車も滑る滑る〜。車を止めるところもないため、看護婦さんは車の中で待っていてもらい、対向車があれば動かしておいてもらうことにする。

 最後の一件。国道が渋滞して全く動いていないため、わき道を行くことにしたが、これが失敗。車の腹が雪の上に乗ってしまい、立ち往生。いくら四駆でもにっちもさっちもいかなくなってしまった。

どうしよ〜?!

 人家に入っていってスコップを借りた(本当は男の人がいたら助けてもらうつもりだったのに、おばさんしかいなくて諦めた)。雪をせっせと掘る。しかし吹雪の中で、なかなか動かせない。
 半分あきらめて、診療所に電話して救援を呼んだ(こんな時、携帯電話は便利)。

 なんとか30分ほど掘ったとき、車が動けるようになって、50メートルほどバックして(雪壁に当たりながら)脱出成功! 診療所からロープを持って救援隊が来る直前であった。

まだ明るいうちでよかったわ〜 え〜運動したで〜


ヘリでの搬送


平成12年5月14日

 今日は伊吹町、春日村主催の伊吹山ふれあいウォークがあった。応募が多かったため、伊吹町から80名、春日村から80名をそれぞれ抽選し、登山のガイドを大垣山岳クラブの皆さん20名に願い、観光ボランティアの方にもご協力を願い、両町村役場からのスタッフも会わせて200数十人の参加者であった。

 距離は12kmだが、伊吹山ドライブウェイ7合目から御座峰、大禿山、国見岳、国見峠までの片道は、かなりきつい登山道である。参加者の中には、小学5年生から80歳近い方までいろいろであった。→詳しくはここを見てね

 前日に雨が降っており、道はぬかるんでいる。また岩があちこちに露出しており、ゆっくりしたペースとはいえ、体調の悪い人が出てきた。救護班である私とナース山田は集団の真ん中について行動。そして幸いにも坂田消防のI氏とK氏がボランティアで参加していただいていた。

 首の手術をした男性がリハビリを兼ねて登山に参加されていたが、途中で足がしびれてきたということで、テーピングを施行した(この方は無事ゴールされた)。他に膝の悪い女性の方が、やはりリハビリを兼ねて参加されており、こけた拍子に膝を痛めてしまい、歩けなくなってしまった。膝に水が貯まっており、テーピングをするも動けないとのこと。

 坂田消防のI氏とK氏が同行いただいたお陰で「ヘリコプターを呼びましょうか?」とのアドバイス。女性に聞くと「もう歩けません」とおっしゃるため、ヘリを要請してもらった。

 坂田消防には無線がつながらないため、東浅井消防本部を介してヘリポートに連絡をとっていただく。(さすがレンジャー、てきぱきとした行動)

 距離40kmくらいある日野町のヘリポートから20分で到着。ヘリは頭上でホバーリングし、黄色のウェアの救急隊が降りてこられる。(おーかっこいい!)

 黒い服のI氏と白い服のK氏が女性を介助。黄色い服の救急隊が二人降りてきて、空気で膨らますことのできる担架に女性を丸ごと包み込み、再び上昇してヘリ内に収容した。

 ヘリは一旦坂田消防本部のヘリポートに着陸して、そこから病院へ救急車で運ばれることになった。

 かっちょいい〜。消防隊員の皆さん!

・・・数日後、ご丁寧にその女性が御礼にいらっしゃいました。足をひきずりながら・・・


最期の一言

その時、最期の一言が言えるだろうか?

平成●年●月●日

 かれこれ3年にわたって心不全で見てきたBさん90歳。入院中にはあと何ヶ月と言われていたが、退院後はむしろ体調がよくなり、散歩できるまでになっていた。しかし寄る年波には勝てず徐々に寝たきりになってきた。1ヶ月前から血圧は日に日に下がり、ベッドサイドで家族の方と今後の状態を話したりしているときには何の反応もないのに、「Bさん、お大事に」と言うと「ありがとうございました」と答えてくれた。(どきっ、『あんまり長くない』って事聞いてやはったかな?)

 とうとう食事も入らず、手足が冷たくなってきて、今日か明日かというところまで来た。そしてある夜電話「たった今亡くなりました」と。すぐに往診して死亡確認に行く・・・

お嫁さん:「先生、最期に私たちに『ありがとう。十分してもらいました。私は寝ます』って言って息を引き取りました」

もう家族がうるうる・・・私ももらい涙・・・

こんなけ最期を締めくくれる方も珍しい。感動・・・


医者になること

 この頃、医療事故の問題がいろいろと出ていますが、ひとつの話題として書かせてもらいます。

 医学部は6年間(臨床実習2〜3年)、そして国家試験に合格して、晴れて医師免許を持ちます。でもこの時点では自動車の運転免許証と同じで、ペーパードクターでしかありません。このあと臨床研修を数年行います。

 私は卒後すぐ○○という病院で働かせていただきました。学生時代のベッドサイドティーチングと違い、自分が真の主治医となります。私は最初は循環器を選択しましたので、緊急で心筋梗塞や心不全の人がよく救急車で運ばれてきました。そのたびに夜呼ばれて、心臓カテーテル検査をし、PTCAなどの治療をして集中治療室(CCU)などで管理をします。もちろん、常に上級医師に教えていただきながら治療を行います。

 主治医になった以上、自分がその患者さんの命を握ることになります。特に循環器は分単位で患者さんの状態がダイナミックに変化します。自分が手を抜いたら、患者さんの状態はすぐに悪くなる。自分の判断ミスが瞬時に、患者さんの状態に反映されることを、痛いくらいに上級医師から教えていただき、また実感しました。

 ある夜、病棟でカルテを書いていると(この頃はとにかく家には帰らず、夜も病院にいてたくさんの患者さんを診るよう言われます)、主治医じゃない患者さんの容体が急変し、脈が遅くなり血圧が下がりました。とっさに患者さんを診察し、昇圧剤などを投与しました。・・・が量を間違えました。患者さんは血圧が上がりすぎ、脈も速くなりすぎて、当直医の指示で集中治療室に運ばれ、治療を受けました。・・・この時はもう自分が青ざめました。

 この経験で、自分がその患者さんの『命』を預かっていることを本当に体で知りました。自分の一挙一動で患者さんの運命が変わる事を痛感。この時以来、本気で、病気や薬剤のことを勉強し、上級医のカルテを見て処方を覚えるようにしました。また今後患者さんはどうなるのか常に予測し、対応策を前もって考えるようになりました。

 自分の命をかけて、そして自分の一生をかけて患者さんの「命」を救わなければならないと、心と体で感じました。そして誓いました。(最近は、自分の心身の状態をベストに保ちながら、患者さんの「命」そして「人生」を大切にしなければならない、と考えを修正していますが) 

 初期研修の2年間は、本当に自分を鍛えていただいて感謝しています。医療ミスはあってはならないことだと思います。でも自分が医師として成長していくためには、患者さんにご迷惑をかけてしまうこともあると思います。心に誓って「手を抜かない」そして「同じ失敗は二度と起こさない」気持で、日々精進したいと思います。


俳句の先生

 研修病院時代、循環器科と血液内科を平行して研修していたときです。朝8時から病棟回診、8:30〜19:00まで心臓カテーテル検査、その後再度病棟回診。昼御飯も食べている暇のない頃でした。血液内科に白血病の60歳の男性が入院されました。入院された時点で、主治医と看護婦が同席して患者さんと奥様に病名の告知が行われ、一緒に病気と闘っていくことを決心します。

 その患者さんは、いつも明るく医者や看護婦に接していただきました。抗ガン剤が始まっても、弱音を吐かず、奥様と俳句を作っていらっしゃいました。

「先生、俳句を作ってみませんか?」
と言われ、季語の使い方を教わり、日頃感じていることを何句か作って見ていただきました。そのうちに看護婦さんたちも俳句を作り出し、その病棟では一時俳句ブームとなりました。私たちに、俳句だけじゃなく、生き方についていろいろアドバイスをしていただきました。

「先生、私は『馬酔木』という同人雑誌の編集もしているんです。載せてみませんか? 湖北出身の先生だから俳号は、伊吹山に関連づけて『秀嶺』なんてどうかな?」
と言われ、『馬酔木』の最終頁あたりに何句か載せていただきました。題はほとんどが病棟でのできごとでした。まだ慣れない病院での仕事に余裕のなかった私に、俳句を書かせることで、自分を見直す機会を与えていただいたように思います。

2年の研修を終えて、次の病院に行くことになった1月ほど前、
「この季語辞典は私が昔から愛用していたものです。先生使っていただけませんか?」と言って、大事にされていたであろう古い辞典をもらい受けました。

転任して2週間後、先輩医師から「急変して○○さん、お亡くなりになりました」との電話に、出る言葉がありませんでした。

 「患者さんに生き方を教えられる」ことを、実感しました。自分を表現する楽しさもこの時に教わったように思います。いただいた季語辞典は、○○さんの形見として家の本棚に並んでいます・・・。


苦手な朝

その1:平成12年11月○日

 夜に比べて、なんとも朝は苦手だ。朝7時、ベルが鳴る
・・・目覚ましをきらなくちゃ・・・
・・・いやいやあれは電話じゃないか・・・

音の鳴る方に向かって這って、ようやく電話をとると、
「高橋ですが、お婆ちゃんが苦しがっています。往診をしてもらえませんか?」と。
すぐに正気になって(なったつもりで)、服を着替えて、診療所に行って白衣に着替えカルテを用意して往診カバンを持って、急いで車で出かけた。

高橋■さんのうちで、玄関を開ける・・・が開かない。あれっ、電話しておいて玄関を閉めておくなんて失礼な・・・と思って、何度かベルを鳴らして玄関を開けてもらった。

「えっ!」と家の人、絶句。うちのお婆ちゃんは元気です。先生は呼んでませんけど」

・・・げ、げ、げ。違うやんけ〜。急いで診療所に戻って、ナンバーディスプレイをチェック。電話番号から電話帳を調べて電話主を捜す・・・

そうかそうか、高橋●さんちのお婆さんだ。義母のお婆さんの名前が白井さんだから、気がつかなかったんだ〜。

 高橋さんちへ急行すると、確かに呼吸を苦しそうにしている白井婆ちゃんさんがいた。酸素飽和度も低く、在宅では無理そう。喘息あるいは肺炎を疑い病院に連絡を取り、救急車を呼び、入院してもらった。  →結局肺炎でした。

反省:
もしナンバーディスプレイがなかったら、私は信用をなくしていただろう・・・


その2:平成12年11月▲日

 その数日後、やはり朝7時、電話が鳴る。
「山本ですが、お婆さんが、おしっこが出なくて下腹部を痛がっています。これから救急車を呼んで病院に行くから電話しておいてくれませんか」と。
寝ぼけまなこの私は不機嫌に、山本さんちか・・・いきなり病院に連絡せよと言われても一方的な! 一旦往診してから送るのが筋じゃないか・・・でも病院に行くっていうのだからまあいいか・・・と思いながら、二つ返事に電話を切った。

病院に電話:「今から山本さんが、救急車で行くのでお願いします。病状は尿が出なくて困っていると、下腹部痛だそうです」
病院医師:「陰部ですか?」
私:「いえ、私も電話を受け取っただけなので、よくわからないんです。とにかくお願いします」
・・・冷や汗

その夕方、ケアマネージャーから
「先生、山本さんちに電話しましたけど、病院など行っていないそうです。隣の山水さんちに救急車が来たって言ってましたよ」と電話。げ、げっ、本当に冷や汗〜。

人まちがえて病院に電話してもた〜。

反省
 朝は電話を取らない方がいいかもしれない、目が覚めていない・・・
 自分が診察しないのなら、病院に連絡しない方がまし・・・(病院にも失礼)
 ちゃんとひとを確認すること・・・急ぎで相手もあわてているし・・・
(注意:名前は仮名です)


鉄道員(ぽっぽや)

 ファイアーさんの「鉄道員っていう映画良かったですよ」という言葉にずっと引っかかっており、ようやくビデオを借りてきました。・・・決して派手ではない地味な仕事を貫き通す一人の鉄道員(ぽっぽや)のたった二日の出来事でした(主演 高倉健)。乗る客も余りいない駅であるのに、駅長という仕事のために愛する娘とも妻とも悲しい別れになってしまいました。でも・・・

平成12年2月○日

 その81歳のお婆さんは、本当に達者な方だったようです。ただ、ふらついたりしやすくなったために往診をするようになりました。しかし急激に病気が進み、最後は日に日に体力を失い寝たきりとなりました。

 その日の夜(午前1時)、意識がなくなり、お嫁さんから電話がありました。叩いても反応はなく、脈はもう弱くなっており、時々黒い胃液を吐いていました。もう間もなくだ・・・と思い、お嫁さんに「家族の人に来てもらって下さい」と話しました。

 が、ご主人(患者さんの長男)はJRに勤めに出ておられました。奥さんが会社に電話されましたが「電車の運転中は一切取り次ぐことはできない。勤務が終わり次第連絡する」と言われていました。次男さんは名古屋から駆けつけてくると・・・

お〜い、いつになったら家族は来るんや〜??

 そして1時間半、安らかに眠っていかれる患者さんをお嫁さんと二人で見送りました。お嫁さんとぽつりぽつりと言葉を交わし、吐物の処理をしながら待っていると、なんだか自分のお婆さんのように感じられました。      

 電車の運転中は、肉親の急病といえども一切の連絡はしない。もし知ってしまったら、冷静に運転ができなくなるかもしれないから・・・鉄道員の厳しいルールと、誇りに胸を打たれました
(その後のJR職員さんに聞いた話では、できるだけ融通をつけるようにしているが、交代要員がいないとやむを得ないとのことでした)


予後? 死後?

診療所の電話番号は、0045です。

平成7年○月○日

 86歳の女性、定期的に往診していましたが、食事が入らなくなり、肺に水が貯まるようになってきました。そして、とうとう最後の日・・・

電話で呼ばれて、往診すると、家族や親戚の人が20人くらい集まって、患者さんを見守っていらっしゃいました。娘さんたちは、えらがる患者さんの背中をさすってあげておられました・・・

30分ほど見ていましたが、あと数時間はもつと思われたたため、私は一旦帰ることにしました。家族に帰ることを申し出ると、

家族「もし何かあったら電話したらいいですか?」

私「0045に電話して下さい」

家族「・・・死後(45)、ですね」

私「・・・・」

死後じゃなく、予後と呼んで欲しいなぁ・・・と思いました。ちゃんちゃん


肝移植ができれば・・・

 その患者さんとは29歳の時からのつきあいでした。彼には週3回診療所に来てもらい、強ミノの注射をしていました。年が一緒だったこともあり、仲の良い友達でもありました。彼はC型肝炎による肝硬変で、某会社の研究員をしており、インターネットが流行りだした平成8年頃からしばしば私のHPを見ては、「あのブドウの背景がいい」とか「BGMは耳障りだから止めましょう」とかアドバイスをしてくれていました。

 そんな彼が、35歳の時「先生、今度結婚します」と告げてくれたときには「おめでとう」と言いながらも、ショックでした。なぜなら、1)フィアンセに肝炎ウイルスをうつす可能性があること、2)彼の寿命が数年しかないことをフィアンセに告げなければならなかったから。・・・もし知らずに結婚したらどうなるか・・・

 「フィアンセと一回話をしたいんだけど」と言う私に、「先生、自分から話します」と言って取り合ってくれなかった彼。結局、フィアンセとは顔を合わしてくれなかったばかりか、フィアンセに全く肝硬変のことを話さずに結婚してしまいました。

 新婚旅行から帰ってきた頃から、状態が悪化。結婚して1ヶ月後、急速に肝不全となり、入院せざるを得なくなりました。が、やっぱり奥様には会わせてくれず、彼の父を呼んでお話ししました。「そんなにひどかったのか」と涙ぐむお父さんを横目に、彼は「絶対に妻には言えない」とかたくな・・・寿命が数年しかないと本人に言っているのに・・・

 病院に入院してようやく、主治医から奥さんに告知されました。奥さんもショックだったと思いますが、献身的に介護されていたそうです。頼みの綱は、肝移植のみ・・・生体肝移植に期待をかけたのに、結局ドナーの問題でできず。病院主治医は脳死肝移植に登録してくれました・・・が、C型肝炎の末期に対し、脳死肝移植は順番が回ってこなかった。

 結局、結婚して半年で、彼は亡くなりました・・・。同級生で、メール友達だったのに・・・今頃彼は天国で何をしているだろう? 忘れることのできない友達です。


アンディフグ

 アンディフグという武道家が亡くなったというニュースがありました。
 10年ほど前に、白血病の青年を受け持っていて、ちょうど俳優の渡辺謙が、白血病と闘っている時でした。「ぼくも渡辺謙みたいに元気になれるかな?」と心配そうに尋ねてくれたことが忘れられません。その後彼がどうしているか聞いておりませんが、今回うまくレスキューできた症例に遭遇しました。「死」に向かう船を「生」に舵取りすることにお手伝いできたことを、本当に喜んでいます。

平成○年5月○日

 「足の腫れ物が治らないんです」そういってB氏はおっしゃいました。歯科でも治療中で抗生剤が出されているというのに・・・。そして腕には出血斑が出ていました。

「おかしいですね」と言いつつ、採血してみると、血小板が1.6万しかない(通常は13〜43万)。白血球も2300しかない(通常は3000〜9000で化膿症があると増えるはず)。白血病を疑い、他の採血データを待ちました。

 翌朝、「白血球分画で、前骨髄球が80%」というデータを見て、早速B氏と奥さんを呼び、急性白血病であることを説明しました。この病気は、出血が止まらなくなって脳出血などを起こし死亡する確率の高い病気でした。本当に幸運なことに、数年前に中国の医師が『急性前骨髄性白血病に対する大量ビタミンA療法』を発見し、治らない病気が治せる病気になっていました。

 病院にすぐ入院してもらいました。病院医師は、休日にも関わらず東奔西走していただき、クリーンルームという雑菌の入らないようにした部屋で、治療を開始していただきました。

・・・そして秋、B氏が診療所を訪ねて下さいました。
B氏:「先生、無事に退院してきました」
私:「よかったですね。おめでとうございます。・・アンディフグをご存じですか?」
B氏:「病院の先生にも言われました。私と同じ病気で彼は亡くなったけど、私は生きることができました」

あと1日遅かったら・・・と思うと本当に生死の分かれ目でした。B氏には、アンディフグの分も生きていただきたいと思います。


鳥になりたかったのに

 伊吹山は、パラグライダーができることでも有名です。天気のいい日になると、青や赤の鮮やかなパラグライダーが、空を飛んでいます。私もうらやましいとは思いつつ、ちょっと躊躇しています。

平成8年○月○日

 天気のいい休日、子供たちを連れて伊吹山1合目に遊びに行きました。緑のじゅうたんのような草の上で、10人くらいの人がパラグライダーの指導を受けていました。いわゆる体験教室です。一人一人順番にパラグライダーを操作し、右に左に曲がったり、ゆっくり着地する練習をしていました。

 のんびりと見ていると・・・一つのパラグライダーが、5mくらい上から急に落下しました。肩から落ちていました。

「痛そうやな〜。あんな風にはなりたくないな〜」

 と思いつつ、飽きたのでしばらくして、家に帰りました。・・・しばらくすると、玄関でピンポ〜ン。出てみると、

若い女性(20歳)が、痛そうな表情で

「すいません。ペンションいぶきに泊まっているのですが、今日パラグライダーから落ちちゃって〜。ペンションに帰ってきたら隣に診療所って書いてあるから来たんです。診ていただけませんか?」

 若い女性だったから・・・というわけではないのですが、診察をしました。休日のレントゲン撮影は、現像器の立ち上げに15〜30分位かかって結構面倒なものなんですよね。
 レントゲンを撮ってみるまでもなく、でも撮ってみましたが、左の鎖骨骨折でした。病院に紹介し、タクシーで行ってもらいました。

翌朝、気になって(若い女性だからというわけではない)ペンションに行ってみると、「手術もできないし、しばらくバンドしておくように言われました」ってけろっとして笑っていました。

・・・1日では鳥になれなかった女性の話でした・・・
ん〜翼の折れたエンジェル ♪


何を食べた?

魚の骨は結構のどに刺さっていたりします。でもこれはまれでは?

平成13年○月○日 (ご本人の了承を得ています)

 保健センターの看護婦さんが元気な声で「せんせ〜い、患者さんを連れてきました。診て下さいません?」と患者さんと一緒にやってきました。72歳の女性、町の健康教室に来られたものの、お腹を押さえて痛がっているので、連れてきたとのこと。

 「みぞおちのあたりが痛みます。むかつきはないし、下痢もありません。食べ物ですか? 前の日に法事があってその後から痛いんですけど、古いものは食べた覚えがありません。」と結構苦しそうにおっしゃる。

 明後日内視鏡をしましょうとのことで胃潰瘍の薬を出して帰ってもらいました。採血で強い炎症反応が出ており、翌日あわてて電話しましたが「痛いけど大丈夫です。食べられます」とのことでした。

当日内視鏡をしてみると、何か胃粘膜に乗っかっているなあ〜
なんやこれ、乗っかっているんじゃなくて?
刺さってるやンか!
木の棒みたいやな〜
っちゅうことで、鉗子でつまみましたが、抜いても抜いてもまだまだありそう・・・
・・・冷や汗・・・・(病院に紹介せなあかんかな?)
6センチ引いて、ようやく全貌を現したのは「つまようじ」

何でこんなもんが刺さるん?

つまようじを抜いたあと、急に痛みがなくなって元気になった患者さんでした。
「どうして飲んだんでしょうね?」と本人が言うけど、こっちの方が聞きたいわ。
痛そう〜


風邪で診療所はお休み?

平成10年2月○日

 いつも糖尿病で毎週診察に来ているMさん、太りすぎて「食べるな」と言っているのに診療所の帰りに隣の店屋でパンなどを買っている。腎臓も悪くて「辛いのはダメ」「肉や魚はダメ」「甘いのはダメ」なんて言っているから可哀想なのだけど。

 その日はどうしたんだろう、来るはずのMさんが来なかった。患者さんの一人に「Mさん、珍しく今日は来られませんね」と言うと、「今日は風邪で寝込んでいるらしいわ」との返事だった。

おいお〜い! 風邪ひいて診療所に来ないなんて、なんかおかしいんじゃないの? 診療所は病気を診るところなのに、ホントに病気の時は来ないなんて〜と笑っていたら、
翌週「Mさんがずっと寝込んでいるから往診して欲しい」との家族からの電話であった。・・・えっ、うそ〜っ!

往診してみると、食事がずっと入らず、頬はこけ顔色が悪く、明らかに異常であった。点滴と採血をして帰った。検査では、尿素窒素(BUN) 140, クレアチニン 8 まで上がっていて(尿素窒素は正常20以下、クレアチニンは正常1.3以下)インフルエンザが引き金となる腎不全の悪化であった。すぐに救急車で入院してもらった。

入院して数回透析を受けたMさんは、「もうこりごり」と透析を嫌がり、退院後は優秀な患者さんに変身したのであった。雨降って地固まるか?
・・・ちなみに食事はヘルパーさんが腎不全・糖尿病食を作ってくれている。


蜂でショック

平成11年○月○日

外来診察中に受付で「急に目が見えなくなったんや。診てもらえんやろか」と言っている声が聞こえてきました。『眼科に行って欲しいなあ』と思いつつ、目の前の患者さんを診察していると、急に受付で悲鳴!

きゃ〜!!

 急いでかけつけると40歳の男性が仰向けに倒れていました。呼びかけに反応はありますが、うつろな状態、脈拍微弱、多量の発汗と全身の蕁麻疹、血圧70/でした隣で奥さんが「蜂に刺されたみたい」と言っていました。

 蜂毒によるアナフィラキシーショックなんでしょう。やばい、やばい、下手すると命に関わる・・・看護婦にストレッチャーを運んできてもらい、酸素吸入、点滴確保、急速輸液をしながら処置室へ運びました。ボスミン0.3ml皮下注、ソルメドロール500mg点滴内へ、ポララミン1A筋注しました。

 しばらくすると血圧が80mmHgに上がり、脈拍81回、酸素飽和度 93%、呼吸音は正常、まだ反応は鈍いもののちょっと回復してきたようでしたので、救急車は呼ばず、経過観察することにしました。全身にぶつぶつした膨疹ができていました。念のため挿管できる準備もしておきました。ボスミン再度0.3ml皮下注。下肢挙上。

 その後、看護婦に血圧フォローを頼み、診察室で待たせている患者さんを診ました。血圧は徐々に上昇し(120/70), SpO2 98% となり、初期液再度500ml追加(計1000ml) 、2時間後には意識もしっかりし自分で歩いて診察室にはいることができましたし、膨疹も引いていましたので、帰宅させ、明日再診するよう言いました。

やれやれ〜。翌日診察にみえましたが、けろっとして「夕べは太鼓の練習に行ってきた」とか・・・えっ! 安静にしていると思ったのに・・・私がショックでした。


まさかの破傷風

『最近、事件簿更新しないんですか?』とS病院の看護婦さんに催促されました。でもなかなか書きにくいんですよ、プライバシーの保護があって患者さんの了解も必要だし・・・ということで久々に更新しました。患者さんの了承を得ています。

日本では破傷風の報告は約70例だそうです。50年前には2000例を越えていたので、その数は激減しています。それでもいまだに死亡率の高い(20〜30%)病気です。

平成○年11月○日

患者さんが、メモを持って診察にいらっしゃいました。


話しにくいのでお読み下さい。

11月3日(土)頃から口の閉開ができにくくなり、4日(日)コーラスはできました。夕食の頃にはかみにくい状態がでてきました。

11月5日(月) 予約していた大学病院の歯科で、この症状はかみ合わせの悪化が原因で生じたことで、その治療をしてもらい、固いものは食べないで、あごを使わないようにすれば、その症状も治まると。特に検査は何もされませんでした。夕食はうどんを少し食べ、話しにくい感じがしてきました。

11月6日(火)前日よりよけいに悪化し、うどんを入れるも痛くて食べられず、ストローさえすえない状況で、牛乳だけ1回に500cc程食事がわりに飲みました。かなり話しにくく、急ぐとよけいです。

11月7日(水) 首まで回しづらくなり、歩行はロボットの様だと子供に言われ、うまいことを言うと感心している場合ではありませんが、ここ2日間ほとんど食べられないと言ってよい状況で、栄養はこれまでの蓄積がかなりあるとはいうものの、このままではと思い伺いました。

←(写真は、おもいっきり口を開いてもらっていますが、これ以上開きませんというより、全く開きません。首筋の筋肉は緊張して動かすことができません)

今から思うと、食欲は怪我をした前後頃から少し落ちていて、これはダイエットの好機到来とうれしくもありました。歯科の先生もこの体を見て「ダイエットできますよ。そんなに気にしない方がいいです」と言って下さったのですが、このありさまとなり、参ってしまいました。2日間あまり食べていないのに、ふらついたりもしませんし、倦怠感もありません。お腹は空きます。

 私は今日まで20日間ほど、鼻を1日中かみ続けていますので、それも一因ではないかと密かにおもっていますが関係ないかな? 今朝も牛乳200ccを時間をかけて飲みました。
 最近検診はさぼってばかりです。よろしくおねがいします。


実はこの患者さんは、10日ほど前に畑で転んで膝を怪我していました。診療所で洗浄して縫合したのですが、土で汚染されていました。処置している間に

患者さん『先生、今話題の炭疸菌(たんそきん)じゃないですよね』

私『炭疸菌? いやいや、そんなことはありませんよ』とか笑ってしゃべっていました。

傷の治りが悪く、10日ほどかかって「もういいでしょう」と言っていた数日後のことでした、上のメモを持って受診されたのは。

ひょっとして、破傷風か!? ひぇ〜〜〜

すぐに病院に紹介しました。この病気は、口が開かなくなり、全身のけいれんが起こり、呼吸筋が麻痺して死亡することもある怖〜い病気です。案の定、この方も入院後けいれんが起こり、集中治療室で治療を受けましたが、背筋がのけぞるほど緊張して看護婦さんから『お尻と頭がくっつくほどだ』と言われたそうです。またちょっとした刺激でけいれんが起こるため、歯茎から血が出るほどだったそうです。なんとか1ヶ月で退院となりました。

・・・炭疸菌も怖いけど、破傷風も怖いですわ。

(現在は、三種混合ワクチン、二種混合ワクチンに破傷風のトキソイドが含まれています。このため破傷風の発生は激減しています。小児期の予防接種はきちんと受けた方がいいですね。発症は少ないとはいえ、土の中には破傷風菌はたくさんいるようです。この方、退院してから数ヶ月しても、背中の痛みが残るようですが、こんなものでしょうか、ご経験がある方は教えて下さい) この患者さんは戦時中はカナダにいたそうですし、破傷風のワクチンなどとは縁のない時代の方でした。


散 歩

ご家族の了承を得て載せています

「先生なあ、年をとっても死にとうはないっ。やっぱり長生きしたい」

「私はね、招集されたんや。九州の佐世保、あの時はえらかった」

「先生は若い。ええなぁ。」

亡くなる前、Nさんが言っていた言葉である。

 Nさんとはかれこれ7年くらいの付き合いである。お寺のご住職で、昔長谷寺でも働いておられた。最初の頃は、食欲不振で往診していたが、枕元には「リポビタンD」がいつも置いてあった。3年前に「歩けなくなった」とのことで往診した。腕を痛がっていたからひねったのかなと思っていたら、看護婦が「右半身麻痺してるみたいですよ」なんていわれ、そう言われてみると、脳梗塞の不全麻痺であった。

 デイサービスに出ることを再三話したが、頑として受け付けなかった。しかし意外にも看護婦の訪問によるリハビリは結構喜んでくれて、訪問看護は亡くなる直前まで続けることができた。

 出不精なNさんを連れ出そうと、春の花見の頃、車椅子に乗せて外に出た。山寺なもんで、いきなり急坂。看護婦さんによる散歩は到底無理で、私も「こけたらNさんと一緒に崖の下やねぇ」と冗談を言いながら、結構車椅子の操作に汗をかいた。

 それ以降、「花見ができてよかった」と何度も喜んで、話してくれた。秋には、もみじを見せるために再度散歩を試みた(写真)。山里の夕方は早く、3時を過ぎると日は沈んでしまう。少し寒くなった空気を感じながら、Nさんはやっぱり楽しんでくれた。

 そして、翌年の4月、再度花見計画を立てた。看護婦は、「かなり衰弱していて、車椅子に座っていられるか問題ですよ」と連絡してくれたが、本人は「行きたいなぁ。行きたいなぁ」と意欲的であった。

 花見予定の3日前、看護婦から連絡あり、「Nさんが誤嚥したようで、呼吸状態が悪いです」と。往診したが、やはり肺炎を起こしていた。「入院しますか?」と聞いたが、自宅で見てくださいということであった。抗生剤の点滴を毎日続けることにした。

 花見予定の前日、もう花見は無理だとわかっていたが、桜の枝をちぎって見せようかと考えていた。が、なんということ、「息をしていないようです」との連絡があったのは真夜中のことであった。

90歳という年齢でありながら、まだ「生」に対する意欲を持っておられた。また徳を積んだお坊さんであっても、やはり生身恋しという気持ちは、「人間らしく」生きていらっしゃったなと親しみが持てた。

生身から解き放たれて、Nさん、自由に山里の桜を眺めてください。  合掌


ワールドカップ決勝、見たかったね

ご家族の了承を得て載せています。

平成14年6月
 Jさんは、若い頃はスポーツの得意な活発な青年だったそうです。それが18年前、労災に遭われ頚椎を損傷されました。頚髄の損傷した場所によって麻痺する場所が変わるのですが、第5頚髄という場所で、肩から下の全ての機能を失ってしまわれました。その後長い間、入院生活をされ、病院を変わられ、数年前より在宅療養をされるようになりました。痰を吸引するために、のどには穴が開けられ、吸引器で引けるようになっています。穴を蓋をしないと息が漏れるためしゃべることができませんので、普段は蓋をして会話ができました。

 親戚の保健婦さんや、看護婦さんの勧めもあり、2年前から診療所からの訪問診療をすることになりました。頭のいい人で、冗談を言うのが好きで、しゃれをよく聞かされました。ご本人から文句(ジョーク?)を言われながらも、奥様や家族の人は本当に献身的に介護されていました。

私:「Jさん、今日はまたお腹が張ってますね」
Jさん:「臨月で今日が予定日や。嫁さんに浣腸して出してもらうわ」

私:「こないだのTホームのデイサービスはどうでした?」
Jさん:「28度越えんと冷房を入れれもらえんので、血圧が下がって目の前が真っ白やった。」

私:「伊吹町の文化祭は行ってきやはりましたか?」
Jさん:「あかんのや、電動車椅子が長いから、2階へ行くのにエレベーターがつっかえてしまう。足を切らんと使えへんわ

 家の中では、電動車椅子を利用し、あごで車椅子を操作できるようになっています。また散歩する為に自宅を改造し、地面に降りる為の30cmくらいを電動で昇降できるリフトを使われていました。ベッドも電動で、やはり吊り上げて車椅子に乗ったり、入浴の浴槽に入れるようにされていました。

 往診は週1回、訪問看護は週2回(うち1回は入浴)、週1回はデイサービスを利用されます。しばらく往診を続けていると、Jさんという人がわかるようになってきて、スポーツが好きでテレビのスポーツ観戦を良く見ていること(大リーグ情報はめちゃくちゃ詳しい)、暑さに弱く、早朝のクーラーが使えると便利なこと、奥さんがつきっきりで少々疲れておられること・・・などが見えてきました。看護婦やヘルパーさんたちとの女性との会話も楽しんでいらっしゃったように思います。

 何かいい機械はないだろうか?と考えてみて、調べてみると、環境制御装置という機械があることが分かりました。ストローで息を吸うと項目を選択し、吐くと決定します。ベッドの上下ができ、テレビのスイッチが入り、チャンネルや音量が調節できます。照明のスイッチも入ります。エアコンのスイッチも入るようにしてもらいました。また奥さんが部屋にいなくても「ナースコール」の利用もできます。


呼気スイッチで操作します

パネルを選択して、赤外線で各電気器具に指令を送ります

 保健婦さんや業者さんの協力も得て、機械を取り付けてもらい、多少の慣れが必要でしたが、しばらくの間に使いこなされるようになりました。これで、自分の体調に合わせてエアコンを入れることができ、自由にテレビ観戦することもできるようになりました。

私:「今日の野茂はどうでした?」
Jさん:「今日は2本打ちよったで」
私:「さすがよう知ってやはる。Jさんに聞くのが一番早いわ」

 気管支炎になったり、尿路感染を起こしたり、自律神経過反射を起こしたり、いろいろトラブルもありましたが、数度の往診や点滴で回復されていました。ただ今度だけは、ワールドカップの日本対トルコ戦の時に体調を崩し、入院となりました。残念ながらお亡くなりになり、ワールドカップの決勝戦(ブラジル対ドイツ)が見られなかったことは残念でした。

今はもう、18年間のベッド生活から自由になり、手足を動かして飛びまわっておられる事を祈っています。合掌。


こら、はくな〜

診療所に電話すると、隣の医師住宅のリビングと寝室にも電話が鳴るようになっています。私たち自治医大の卒業生の多くは、これが当たり前だと思っています。ただ、5時くらいからかかってくる早朝の電話には結構機嫌悪くなるときもあります。

朝5時:「プルルル・・・プルルル・・・」
私・・(もう朝か、目覚ましがなっているわぁ。嫁さん止めてくれ・・・。ん、違うわ電話や)

「すいません、子供がお腹を痛がっています。診ていただけませんか?」と女性の声

女性の声には私も弱く、「分かりました。すぐ来て下さい」と応えて、着替えスタンバイする。

しばらくして幼稚園児を連れて、お母さんがやってきました。

私:「どうされましたか?」  
母親:「実は・・・・・で」
私:「それでは診てみますね。 ちょっと首を見せて・・・」

子供:「うっ・・・・げぼげぼげぼ」 そして吐物は私の手のひらに納まりきらずにあふれ散りました。もちろんスボンや足にも・・・

しかし何事もないように、タオルでふき取って、診察を続け、「胃腸風邪だと思います。吐いたから楽になったでしょ」クールに答えます。

心では、「このやろ〜、吐くな〜」と思いつつ。 →でもウンではなかった。ゲボやった。ウンがなかった。

(注意:ウイルス性腸炎によっては非常に感染力の強いものがあります。医者としては自分がうつるわけにはいかないので、何度も丁寧に手洗いし、付近を消毒します)


最期までやり遂げた人

Fさんは、福祉施設で働く職員でした。職場健診で血糖が高く出たのが2月、「糖尿病はたいしたことありませんが食事に気をつけてくださいね」と言って、5月に再度受診されました。自覚症状は全くありませんでした。

Fさん「先生、糖尿病は大丈夫ですか?」
私 「血液検査では、そんなにひどくはなっていませんよ。詳しく検査してみます?」
Fさん「この際だから、みてください」

というわけで、念のための腹部エコーを行いました。エコー検査をしながら世間話

私 「最近は老人ホームの高齢者も重症の人が増えましたね。前は風船バレーなんかしてましたけど、この頃は動ける人が少なくなったみたいで・・・」

とかしゃべっていて、突然無言になってしまいました。なんだこれは、すい臓がんじゃないか?

私 「念のため、CTを撮ってみます。」
Fさんのその時の表情を、今となっては覚えていません。

CTの結果は、やはり進行したすい臓がんでした。早速入院の手続きをして、K先生に診てもらいました。

私 「どうですか? 手術は無理でしょうし厳しいですね。1年もちますかね?」
K先生「非常に活動性の高い方ですし、入院じゃなく、できるだけ外来で過ごしてもらえる時間を長くしましょう。低容量の抗癌剤をやってみましょう。効くかもしれません」

とのことで、早速2週間ほどの低容量抗癌剤治療が始まりました。予想外に胸水は少なくなり腫瘍も縮小しました。その後は退院し、診療所の外来で抗癌剤の内服と、週3回の点滴を続けました。ええぇっ!というくらい私たちも驚くほど効果を示し、腫瘍は更に小さくなり、Fさんはボランティアとして老人ホームの仕事を手伝ったり、好きな日本舞踊に打ち込まれました。

翌年(発症1年半後)の年賀状には、 

 「一度諦めた命、新世紀を迎えられるなんて夢のようです。これも先生の懸命の治療と周りの方々の励ましのお陰とただただ感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございます。まだまだ予断は許されませんがある程度よくなりましたら8年間の経験を活かして少しでも社会のお役に立ちたいと思っています。苦しい治療ではありますが先生におすがりして頑張ってまいりますので今後ともよろしくお願い致します」と書かれていました。

その後も、日本舞踊を続けられ、発症してから2年を過ぎることができました。入院する1ヶ月前まで練習に励み、老人ホームなどで発表しておられたようです。入院中の外泊の時も、私の家に寄って病状を話していかれたりして、その頃は既に私は主治医ではなかったのですが頼りにしていただいた事を嬉しく思いました。

最後は自分で希望して大学病院に入院され、全く不安の顔を浮かべず毅然として亡くなられたと聞きました(発症3年後)。強い人でした。合掌

Fさんからもらったクンシランは、妻が今でも家で育てており、去年は花を咲かせました。


医者の祈り

 私は健康には一応気をつけているつもりですが、「医者の不養生」という言葉があります。ここ数年はインフルエンザの予防接種もしているし、休診にすることはありませんでした。

 11月にインフルエンザの予防接種をしてから、ちょっと体がだるい感じがしました。(インフルエンザの予防接種をするとだるくなるんだよな)と思いつつ、診察をしたりビーチボールをしたりしていました。12月になると患者さんが増え忙しくなりながら、ちょっと風邪気味?ちゅう感じで、午前中は外来、午後は往診、夕方は会議、夜はビーチボールの練習をして、深夜は患者カルテサマリーを作っていました。

12月、伊吹町には珍しい某フランス料理店に忘年会の予約をいれました。

「まあ、先生。鼻声!  風邪をひいていらっしゃるのですか?」とマダム。

「なかなか治らなくて・・・」と私。

1月にはいると、一気にインフルエンザA型が大流行。患者さんは、インフルエンザ・インフルエンザ・胃腸風邪・・・の嵐。「口をあ〜んと開けて」と言うと「ごほんごほん」と咳が私の顔に当たる。実家では父親の選挙戦も始まりました。苦しい1月。某フランス店のマダムと電話で話す機会があり、

「あら鼻声! まだ治りませんの?」とマダムが気遣ってくれました。

「インフルエンザが流行していて、風邪の人ばっかり診てますから、近距離でウイルスを吸うんですわ」と私

2月に入り、インフルエンザAは収束に向かいましたが、後半からインフルエンザBが流行を始めました。なかなか治らず、採血しましたけど、異常なし。・・・よかった、でも治らない。

3月にはいるとウイルス性腸炎が流行り、ゲロゲロ・・・。夜11時の救急の往診をした後から喉が痛くなり、痰は出てくるし、一気に風邪症状が悪化。胸部レントゲンを撮りましたが、異常なし・・・肺炎や結核ではない・・・よかった。あきらめて抗生剤を飲み体力温存策をとることにしました。

早く治る事を祈るばかりです(おいおい、祈ってどうするねん。あんた医者やないの!)

・・・ヤブ医者の独り言でした。しばらく、某フランス料理店のマダムには電話せんとこ、声が戻るまで。


沖縄からの診察

 できるだけ泊まりの旅行は避けている私です。寝たきりの患者さんが30人以上いるからです。いつ急変するかわからない。近くのドクターと連携は取っていますが、やはり自分を頼りにしてもらっていると思うと、なかなかふんぎれません。ストレスをためやすい性分なんですね。

 それでも年に1回は気分転換に本土から離れるようにしています。7月、家族で沖縄旅行をしました。急変時は看護師さんと近くのドクターにお願いしておきました。沖縄の天気は晴れ、気持ちのよい海風が気分を一気にリゾート気分にさせてくれました。

 ホテルについて、散歩しようか、プールに入ろうか・・・と相談していると、デイサービスの看護師Tさんから電話。

「Iさんの状態が少し悪いようで・・・痰が多くて苦しそうです」と

「わっかりました。家に電話します」私。

患者さん宅に電話して、状態を話し、気管支炎の可能性あり気管支拡張薬の吸入をしてもらうようお願いしました。診療所の看護師さんに頼んで、抗生剤の点滴にいってもらうように頼みました。毎日看護師さんから状態を連絡してもらって、その都度指示し、状態が安定している事を聞いて安堵しながら、リゾートを楽しみました。


みんな島にて

 しっかし、長野にスキーに行ったときも、土曜日の朝、寝たきりの患者さんから「薬がないんです」と電話があったり、んでもって看護師さんに電話したら「私も空港で、今から沖縄に行くんです」とか。 広島にいるときに予想されていた患者さんが死亡されて、「急いで帰りますから」と言っているのに「今すぐ死亡診断書を書いてくれ」と頼まれたり(日曜日だから役場も休日体制で、あわてる必要もないとお話したのですけど、なかなか納得してもらえなくて)・・・休みを取るのもなかなかですわ。

次回は海外へ逃亡しようか・・・

やさしいお医者さん

 なかなか子どもには人気のない商売?なのが「医者」かもしれません。なにせ三種混合、麻疹、風疹など予防接種が目白押しですから、痛い事をするのが医者と思われている可能性があります。病気になると点滴などもしますしね。注射する時、すごくにらみつけるような眼で見られるので、眼をそらしています。(看護婦さんが「白衣の天使」と言われるのがうらやましいこともあります)

今日は医師会の休日急患診療所の当番で、朝から夕方まで拘束されます。患者さんはあまり多くなく、かといって検査や薬も最低限しかないので、本当の応急処置くらいしかできません。

熱を出した3歳の娘さんを連れて、お母さんが来院されました。

「高熱があり、インフルエンザかもしれないので診てもらえませんか?」とお母さん。

インフルエンザの検査キットも持ってきていたので、薬はなかったけれど「診察してみましょう」と話し、診察室に入ってもらいました。

「どうされました?」
「いつから熱がありますか?」 
「近くでインフルエンザが流行っていますか?」 
「ワクチンは打ちましたか?」 

「それでは診察しますね。首を見せて。お口をあ〜んと開けて。お胸見せて。ベッドに寝てみてね。お鼻から鼻水を取るね」
と一通り診察し、インフルエンザの検査キットで調べてみました。幸いに陰性(マイナス)でしたので、その旨伝えて、薬を出しました。

帰り際に少女が、「こんなやさしいせんせい、わたしはじめてぇ」
と言われて、にんまりする私でした。・・・単純


命を救ったという印象

 診療所に赴任してからもう10年になります。病気の治療ももちろんですが、がんの早期発見も使命のひとつと考えており、がんと診断がついた人、あるいはがんの疑いで病院に紹介しがんと診断された人は120名あまりになりました。特に高齢化と共にがんの発見数は増えており、最近は1年に15〜20人ほど見つかるようになっています。

 70歳の男性Uさんは、かれこれ何十年間もタバコの愛好者でした。ご兄弟も肺癌で亡くなっておられます。ある日、右肩が痛いと行って受診されました。数日前に力仕事をしたという事で、「筋肉痛が疑われますね。痛み止めを出しましょうか」とお話しましたが、Yさんは納得がいかない様子。「念のためレントゲンを撮りましょうか?」とお話して、Uさんも納得されました。

  

多分大丈夫と思って撮ったレントゲンですが、右肺に小さな結節がありました(写真左)。わかります?

背中の痛みとは関係ないだろうけど、病院でCTを撮ってもらいました(写真右)。やはり肺癌の疑いにて、呼吸器科に紹介し、検査入院→手術となりました。手術は、胸腔鏡といって内視鏡を胸に入れて行う手術で、従来より小さい傷ですみました。大きさは1.2cmの癌で完全治癒ができました。

こういうケースは、本当に「命を救ってあげたな」という満足があります。・・・手術をしていただいたのは病院の先生であり、私はたまたま見つけただけで、自分だけの自己満足ですが。

その後、Uさんはタバコを止められました。そして息子さんも甥っ子さんもこれを機に禁煙されました。おまけがついてなおよかった。


肺癌は急速に増えていきますので、タバコを吸わない、検診を受けるといった予防を是非とって下さい。肺癌を発見しても、手遅れのことがありますから・・・。

チームドクターへの道?

これは宿命であろうか?

2003年3月15日

 ホッケー西日本大会がありました。うちの子も入部してようやく1年を迎えました。大阪の長居球技場であったのですが、毎年めちゃ寒いことで知られているようです。くじ運のいたずらか第1試合に4年生の試合が当たり、冷たい雨の中朝5時にバスで出発していきました。

 前日の夜に、ゴールキーパーのMo君がインフルエンザでダウンしており、寝てばかりでぐったりしていると連絡がありました。インフルエンザB型が、遅い時期に(そして悪い時期に)小学校にやってきていました。タミフルを飲ませ点滴をし、
Mo母「明日の試合は休ませなければなりませんね、キーパーいないしどうしよう」と言っていました。
私は既にタミフルを飲ませて二日目でしたので、なんとかなるのではないかと考えていましたが、Mo君が出てもらわないことには勝ち目はない。

 当日は、やや回復した様子のMo君、他の子に移さないように自家用車で行ってもらうことにし、バスの子ども達にも「インフルエンザになりたくない子はこの薬飲んどきな」と言ってタミフルを飲ませました。うちの長女も熱を出しインフルエンザの症状でしたので、私の車に乗せて家族みんなで行くつもりでしたが、天気が悪く下の子ども達が具合悪くなりそうなので、家族は自宅に残りご近所のMoriサンタさんと娘と一緒に車で長居に向かいました。

 4年生チームは初戦、あっという間の敗退。いつもの元気がありませんでした。5,6年生の女子チームも思わぬ苦戦。インフルエンザにかかっていて病み上がりの子が何人かおり、ボールが高く浮いてしまったり、足がライン際ぎりぎりまで運べていませんでした。残念な敗北。  

 男子チームは、ゴールキーパーのMo君がなんとか試合ぎりぎりに熱が下がり回復のきざし。みんながゴール付近にボールを集めることなく、快調に勝ち進みました。

 夕方、初日が終了。女の子が体調不良で帰宅。他にも体の具合がすぐれないままみんなは宿舎に向かうことになりましたが、
役員さんや父兄の人のまなざしが私のほうに・・・・「帰らんといて」

 自宅に電話しましたが、患者さんから何本も電話がかかっているらしい。けど子ども達の事も気になるし、パンツも持って来ていなかったけど、ホッケー部と共に宿舎「スパワールド」へ向かうことにしました。もちろん往診かばんや薬を持って・・・。これがチームドクターへの試練なのでしょうか? 私の車はMoriサンタさんにお願いして乗って帰ってもらいました。

 スパワールドの宿舎は、畳敷きの4人部屋。30人くらいの大所帯で、元気な子はめちゃ元気。温泉に行ったり、プールに行ったり、ゲームセンターで遊んだりしていました。ただ数人熱のある子どももいて、診察しながら薬を飲ませたりしていました。(といいながらたっぷりビールは飲み、温泉でもゆっくりしたりして・・・お風呂で倒れている男性があったようで救命救急士のSさんは消防署に連絡を取っていたそうです。さすが)

 夜中に携帯電話の音・・・救命救急士をしている役員さんから「先生、Tuk君が息遣いが荒く苦しがっているそうです。診てやってもらえませんか」とのこと。往診かばんを持って部屋に向かうが、頭は寝ていて、父兄の人に同じような質問をしていた。

「さっきはいつ坐薬を使ったっけ?」 「あれ、今何時や?」 「1時半・・?、8時に僕が坐薬を入れたんだっけ?」

「先生、しっかりしてください」と役員さん。

眼や口腔、頸、胸腹部を診察し、熱は38.6度、インフルエンザの症状。朝はタミフルは飲んでおらず、試合が終わってから熱が出て8時に坐薬とタミフルを飲ませていました。熱が体内にこもっている様子で汗がなく真っ赤な顔(うつ熱状態)。

再度坐薬を入れて、点滴をしました。まさか点滴を使うことになるとは思いもよらず・・・。

翌朝も熱はありましたが、少し元気を取り戻し、長居球技場にお母さんもやってきて看病してもらい、私たちは試合を応援しました。雨のため頭が痛いという子、咳が出るという子もいて、薬を渡したりしました。

本当に、小学生といえども頑張るものですわ。最後の決勝では、力出し切れず、集中力の隙を疲れて得点されてしまい準優勝で終わってしまいましたが、よくやったと思います。(ホッケーって、痛いスポーツ、寒いスポーツ、しんどいスポーツで、屋内球技専門の私には信じられない世界です)

 

インフルエンザで出場すら危ぶまれたMo君は、なんとゴールキーパー王をゲットしていました。 やったね。影ながらのサポートも面白いかも・・・と少しチームドクターの危険な誘惑に足を踏み入れたhataboでした。

帰ってから電話の履歴を見たら、30件ほど入っていました・・・(汗)

私の手は命をよみがえらせるゴッドハンド・・・という誤解

 医師の仕事は人の命を救うこと、苦痛を和らげること。自宅で意識をなくした人をよみがえらせる事も、時にできる。家族からは驚かれ、一種自分が神様になったような錯覚になるときがある。しかし冷静に考えてみれば、医師が意識をしていれば防げたはずで、常に気を張って診察しなければならない。 「私は神様」と信じる人は宗教のほうに走っていってしまうでしょう。

平成●年1月○日

 その人は、ご家族に脳卒中のある人が4人、突然死の人が2人、心筋梗塞の人が1人という家系の人でした。以前から不整脈や糖尿病があり、心臓の薬や糖尿病の薬を出して治療していました。

数年前に、胆のう炎と膵臓炎を起こし入院してもらいましたが、腎臓がんが見つかり手術をして事なきをえました。元気になって退院されましたが、やはりたくさんの病気を持っておられたため、退院後の体調も変わったのでしょう。事件の3日前に「体がふわふわする」と言って受診されていました。血糖値は136mg/dlと正常でした。

冬の朝5:50、電話がなる。「おばあちゃんの意識がないみたいなんです。呼んでも起きない」と。

寒さと眠気に耐えながら、往診しました。

つねってもたたいても反応なし。血圧は194/104と高い、脈は86回/分、酸素飽和度 98%と正常。瞳孔は左右対称で、麻痺に左右差はない。脳出血ではなさそう。「糖尿病」の人が意識を失っているときはまず「低血糖発作」を考えるのが常識

血糖値 23mg/dl(正常は70以上)・・・はやり低血糖発作。ブドウ糖液を急速静注すると、40ml入れたところで意識が戻りました。

「どうしたんや? 先生、なんでこんなところに? 私何かあったんか?」と正常化するのを見て、ご家族は驚かれる。しゃべるのもはっきりとして動き出される。こんなとき自分が神様になったような「ゴッドハンド」みたいな快感を感じる。

点滴を続け、食事をたくさん摂るように家族に話して、帰宅。満足げにしているとその夕方再び低血糖で意識をなくされ往診依頼。オーノー。再びブドウ糖をガンガンいって意識を戻らせ、念のため翌日病院の神経内科に行ってもらいました。神経内科ではやはり異常ないとのことでした。

ある意味で、医原性ともいえる低血糖発作。血糖コントロールがよくなってきたと喜んでいたのは、手術などにより体の状態が変わったためで、今回の低血糖は、めまい感のため食欲がなくなり、糖尿病の薬が効きすぎてしまった結果でした。すぐに血糖を下げる薬をやめたところ発作が出なくなったのがその証拠。薬はリスクを持っていることを常に意識しなければならない反省材料となりました。


ばばぬき

 平成12年度より、介護保険制度が始まった。この制度は、要介護者を家族だけでなく社会全体で支えるために始まったもので、私たちにとっては、医療と福祉の連携の上で追い風となった。これまで家族が抱え込んでいた介護を、ケアマネージャーが肩代わりしてサービスプランを考え、デイサービスやショートステイ、ホームヘルプサービス、訪問看護など、いろんな職種が支えることになった。

 当町でも、要介護者は、高齢者人口の約1割を占め、170〜180名の方がおられる。そのうち在宅で介護サービスを受けている人が約150名ほど・・・そのうち私が見ている人が100名あまり・・・。ということは、認定更新のたびに主治医意見書を書かなければならない。内容は、傷病名、傷病経過、特別な医療項目、自立度・痴呆の程度・問題行動の有無、身体の状況、可能性の高い合併症、医学的管理の必要性、介護サービスの留意事項、特記事項など多岐にわたる。

ある日、在宅介護支援センターのTさんが、うれしそうに診療所にやってきて(彼女とはツーカーの仲なのであるが)、
「先生、また持ってきました〜」
と、意見書提出依頼書とフロッピーディスクをバラバラバラと机の上に置いた。
「なんじゃこりゃ〜、こんなにあるんかいな?」と私。

「まあ、そんなこと言わんと書いてください。どれから書きます?」
トランプのババ抜きのように、うれしそうにフロッピーの名前の部分を隠して私に引かせようとした。

「う〜ん、じゃあこれ」とひく私・・・・「あぁ〜、ババや〜(T_T)」 「どれひいてもババかジジや〜」

そうして、ババ抜きにはいつも負ける私であった・・・。

(ちなみに、当時、うちの長浜坂田認定審査会ではフロッピーによる提出が可能となっていた。要介護者が100人もいると、いちいち手書きでは時間がかかりすぎ、パソコン入力の方が楽)


夜中の北尾根1人走り

7月某日

東京からのお客さんと民宿で話していた所、8時、娘から電話があった。「消防署に連絡してって」
私:「えっ、消防署? マジ?」 子供に言ってもしょうがない。嫌な予感・・・まだ夕飯も食べていないのに。

消防署:「北尾根で急病人が出ています。至急向かって欲しいのですが」
私:   「どんな状態ですか? 病気で悪いのですか、けがですか?」
消防署:「CPAでCPRしているようです」(心肺停止で心肺蘇生術をしています)
私:   「ヘリコプターは出ないのですか?」 (逃げ腰の私)
消防署:「夜のため、ヘリは飛ばせません。すぐ向かっていただけますか?」
私:   「・・・・わかりました」 (今から行って間に合うんかいな? 弱気な私)

派手にサイレンを鳴らして消防署の車に乗せてもらって伊吹山ドライブウェイをとばして走る。北尾根入り口まで20分はかかる。
途中で無線でファイア〜さんの声:「hatabo先生は今どこですか?」
運転士:「今ドライブウェイ、ゲートから7kmの地点です」
ファイア〜さん:「現場のみんな、もうすぐ先生がつくから頑張れ!」と伝えているのが聴こえる。
私が行っていったい何ができるのだろう?

北尾根入り口到着。20:30
ファイア〜さん:「先生できるだけ早く行ってください」
私:「わかりました」とペンライトを持って、往診かばんと蘇生用バッグを持って走る。
私:えっ、私1人で走れってか? 真っ暗な道を走る・・・が斜面が急で、がれきに阻まれ、最初の静が馬原の登りでダウン。
消防署の投光機が私に当たる・・・
「見られているやんかぁ。こらマジに走らんとあかんなぁ。ゼーゼー」


北尾根入り口 静ヶ馬原の様子。これから登る

消防車の投光機で照らしてくれる中、1人で走る。尾根の上から先は真っ暗。

一山越えて、下る。真っ暗な中、道は1人分しかない。アザミのトゲが痛い。
それでも、イブキトラノオ、ヤマブキショウマが咲いているのが見える。
第一ピークを降りてから少し登りかけた頃、10人ほどの消防隊と合流。「hataboです」
患者さんはタンカに載せられていた。すぐに診察してみる。
ラリンゲアルマスクをしてあり自発呼吸はある、橈骨動脈触知する。SpO2 66%。
私:「Vライン入れますか?」
救命救急士:「心肺停止し30分ほど蘇生していました。あきらめようかと思っていたら自発が出てきました。ラインをここでとっても変わらないし道が悪いのでこのまま運びましょう。酸素ボンベは途中でなくなりました」

昼でも1人しか通れない北尾根は、タンカを担いで真っ暗な中進むことさえも大変な状況。通った人じゃないとわからないでしょう。消防隊もかなり疲れておられる。
先導して石の場所、右折れ左折れを伝える人。交替でタンカを背負う人。救命救急士。


岩場の中をタンカを担いで慎重に進む

とにかく足元が悪い

午後10時頃、北尾根入り口に到着。すぐに酸素吸入、バイタルチェック、Vライン挿入し、救急車で搬送を開始する。しかしこの場所は、坂田郡の中でも最も遠い場所。なかなか病院に到着しない。患者の意識の回復はないものの、バイタルは安定しだしており、少し余裕は出てきた。病院到着、看護師と医師に迎えられる。最も情報を知っている救命救急士がドクターへ事情を報告。山行きの格好の私はおとなしく見ていた。CTは見せてもらった。
帰宅12時前。


救急車に搬入直前。

救急車の中で、モニター類を見る。一時CPA(心肺停止)であったとは思えない。消防隊に感謝したい。

疲れた・・・今日が土曜日でよかった(今回の出動は完全なボランティアです)。患者さんの回復を心より祈ります。助かってください。


家で死ぬこと

 この町は、高齢者は家で亡くなる人が比較的多い。地域性もあるが、私達が最期はどこで迎えたいのか、在宅でも十分にサポートしますよ、という安心を伝えられてきているのもあると思う。それは、診療所職員だけでなく、ヘルパーやデイサービス職員、在宅介護支援センター職員と意識を共有し、協力し合ってきた成果だろう。ただ、365日24時間体制になるのはやむを得ない。あまり遠くにいけないのもこのためだ。(何かあって30〜60分以内に往診できる範囲)

7月某日

夕食を食べた直後、
おじいさんが息をしていないみたいです」と電話がありました。85歳の寝たきりの男性でした。
救急車呼びますか?
いえ、先生お願いします。病院は絶対嫌って言っていましたから」ということで急いで往診しました。

が既に事切れた所でした。

こないだまで誤嚥性肺炎を起こしたため入院してもらってましたが、本人の帰宅願望強く、先日退院。
ご本人は入院中、「家に帰りたい、家に帰りたい」と言い続けておられたようです。
先日往診したときも、「家がええわ〜」と、おっしゃっていました(痴呆がある人なんですが)。
最期に食事をして、黄泉の国に旅ただれていきました。

ご家族は「おじいさんの言うとおりに家で苦しまずに死ねたのだから本望です。診療所の先生に最期まで見てもらうと言っていました」という言葉が胸にしみました。 合掌


物を詰めた!

あわや窒息という経験をされたことはないだろうか?

症例1 うちの息子 1才・・・タケノコの里事件・・・時効成立(息子よ許せ)

 ちょうど昼に帰っているとき、1才のチビがお菓子を食べていた。「たけのこの里」である。甘いものはダメと言った方がよかったのかもしれない。タケノコの里を口にほおばっていて、突然笑い始めた。と思ったら急に顔色が紫になった。やばっ! と思い、子供を逆さにして背中を叩いた・・・ゴホン・・・といってタケノコの里が口から出てきた。あれってピストルの弾の形をしているから、気管に詰まる可能性あり。

 ああ怖いもんだと思った。子供に多いのは、ピーナッツなど・・・これは、逆さにして叩いても出てこなかったら、逆に奥に詰めてしまって、左右どちらかの気管支に入れて、もう片方で息をさせながら救急搬送するという手もある。

 子供に多いのは、タバコの誤飲。たいがいは苦いので、たくさん食べたように思っても吐き出してしまう。また、タバコに含まれる成分が嘔吐をさせるので、やはり吐いてしまうことが多い。タバコ1/2本以下では死亡例はないようなので、比較的気楽に考えている。

症例2 おじいさん

 正月の当直をしていた時、「もちを詰めた」と救急搬送されてきた高齢男性がいた。病院到着時には、既に回復しており数日入院してもらって退院された。聞くところでは、近所に看護師さんがおり、喉に詰めていたもちを手で取ってくれたそうである。命の恩人だわ。

 この症例は、救命成功例だが、時々あるので要注意。新年を祝っていて、ぽっくり逝けるのは幸か不幸か私には判断しかねる。もちを詰めたら、取れるなら手で取ってしまいたい。死亡された症例で、喉頭鏡で喉を見たらもちががっちり詰まっていたこともあるので、必ずしもうまくいくとは限らない。おもちの場合、気道を確実に閉鎖するので要注意である。

 窒息して3分以内に息ができるようにしてあげないと、脳の機能回復にダメージを与える。立っている人、座っている人なら、後ろからミゾオチに手を回してげんこつを作り、おもいっきっり引き上げて肺の気圧を上げると、シャンパンの栓が抜けるように取れることがある。


消防隊からの救護要請!

家に往診に行って、あるいは診療所から、たびたび119(消防署)のお世話になっている。大変ありがたい。ときどき、逆に救援要請が入ることがある。お互いのギブアンドテイク、相互理解が大事。

80歳男性

 午後からの会議中に、携帯に電話が入った(マナーモードにしておいたので診療所から伝言が入っていた)。伝言を聞くと、「○○さんが火事で、倒れているそうなので、消防署から救護要請が入っています」と。すぐに電話してみると、ちょうど消防署長さんが電話口におられた。

「火災があったので消防車で消火作業に来ましたら、中に人が倒れていました。上半身を火傷されています。消防署のラリンゲアルチューブでは、気道の浮腫がくると間に合いませんので、気管内挿管をしてもらえませんか」とのことだった。

「何分で来てもらえますか?」
「今、向かっていますので、大体4分くらいで行けます」

現場に到着して、往診車に積んでいる蘇生用バッグを持って走った。既にレスキューの人たちが心臓マッサージとマスクによる人工呼吸をされていた。

「瞳孔は?」
「散瞳していて対光反射なしです。CPA(心配停止状態)です」

挿管を試みる・・・あれれ喉頭鏡の電気がつかへんやん。ブレードを替えてみて明かりがついたが暗い。
「電池ないかな?」・・・・近所の人に乾電池を持ってきてもらう

夕暮れ時で、あたりはかなり暗くなってきている。喉頭鏡で喉頭を見ながら、挿管。おおっ、1発で入った。(病院の先生にお伝えしたいのだが、現場は、病院のような明かりがあってスタッフがいてストレッチャーがある場所でないのです。家のベッドの上であったり、地面の上であったり、庭であったり、気管挿管しようにもめちゃくちゃ条件悪いということを・・・言い訳ですが) 

動く救急車の中で静脈ルートを確保し、心肺蘇生を続けながら救急病院へ搬送。病院ドクターに後のことをお願いした。


もっとシャバにいたい

92歳の女性(彼女と呼ぶことにする)

 息子さんとの二人暮し。面倒は隣の姪御さんがされていた。3月、「こけやすくなった、えらい。これまで畑に行っていたのにできなくなった」とのことで往診を始めた。最初に訪問した時に、結膜の貧血を認め、手足は紫色で、直腸診で腫瘍を触れ、下血があったので、#1 ぼけ、#2 結腸癌、#3 貧血、#4 心不全、末梢血行障害 と診断した。

 家の人に病院に入院して、ちゃんと検査を受けて、治療が可能ならしてもらったほうがいいよ、と話すも、訳があって病院には行けないと。それならせめて診療所に1回来てくれと話して、社協の車で送迎してもらった。心電図、胸部X線、腹部エコーなどを行い、#1 直腸癌、#2 肝臓転移の疑い、#3 胆石、#4 心房細動(不整脈)、#5 心不全、胸水貯留、#6 貧血、#7 痴呆 の診断をして帰宅してもらった。家族の方針は、病院への入院は全く考えていないとのことを確認し、診療所からの訪問診療でターミナル医療を行うことにした。

 幸いに、薬によって心不全と貧血はよくなり、畑の草むしりをし始めた。一時期はボケ症状もよくなり、デイサービスに通うこともできていた。定期的に訪問することを、ことのほか楽しみにしてもらっていたので、診療所からは遠かったが訪問しがいがあった。息子さんや姪御さんの介護も献身的であったし、ヘルパーさんが毎日訪問してくれて随時情報が入ってきた。

 しかし4ヶ月目、7月にはいると「どうしたらええんやー?、助けてくれー」と錯乱状態が出現し、また寝たきり状態になってきた。食事の変わりに、缶入りの栄養剤を飲ませることにした。お盆過ぎの訪問の時、「わしゃ、もっとシャバにいたい。助けて欲しいんじゃ。先生に頼んでくれー。人生よいことばっかでもないし、悪いことばっかでもない。徳を積んだらよくなるんなら何でもしたい」・・・ちょっと理解しにくいが、とにかくもう少し生きていたいとの様子。「まだ大丈夫やでー」と話すけど、わかってもらえたか疑問。

 看護師が「散歩に行ってみよう」と言い出し、天気のいい夏の昼下がり、車椅子に乗せて散歩させた。彼女にとっては何ヶ月ぶりかの外の世界。私は坂道を押していたので、汗びっしょりだったが、畑仕事の隣人などに「久しぶりやナ、元気かい?」などと声をかけ、堪能してもらえたようだった。

 9月にはいると、痛みが出だし、痛み止めの坐薬を使い出した。稲刈りの時期に、もう一度、車椅子に乗せて外の世界を見てもらった・・・そしてこれが最後のシャバの世界だった。

 10月になり、食事も栄養剤も入らず、やせがひどくなった。床ずれができそうになったがフィルムで覆うことで治っていった。そして、とある朝、反応がなくなったとの電話が姪御さんからあった。「診察が終わったら見にいきます」と伝えたが、ちょうど外来が途切れた頃に「息が切れました」と連絡が入り、往診車を走らせた。最期は、それほど苦しみもなく、安らかに昇天された。

彼女のことだから、あの世でも楽しんでいるような気もするが・・・。 (合掌)


こんなんあり?

「先生、今月は多いのよ〜」とにこにこ顔のT女史。

もうすぐ市町村合併するからといって、介護保険主治医意見書フロッピーこんなに山積みにされたら、あなたならどうする? 

以前、ババヌキって書いたけど、これじゃあ七並べじゃないですか! でもほとんどババだったりして

こんなんあり? 困難ありじゃー!!


めっちゃ悔しい

80台の女性で、かれこれ7年間寝たきりです。食事は家族の方が全面介助して食べさせてくださいます。これまでに何度も熱を出したりしましたが、点滴やら内服の抗生剤などで復活されていました。ご本人の意志のあるうちは、できるだけのことをしてあげたいと思います。ご家族も介護保険のホームヘルプサービス、訪問入浴サービス、訪問看護、デイサービスを、そして介護保険外に訪問診療、訪問マッサージ、リハビリ指導などをしてきました。

 前回訪問時が12月下旬でした。背部は発赤程度でフィルムドレッシングで覆う程度ですんでいました。1月上旬よりショートステイ利用。数日後に訪問してみて、ひっくり返してびっくり! 背部に直径7cm程度の壊死を伴う褥瘡ができているじゃないですか!

 もうがっかりです。褥瘡は作らないよう、保健・医療・福祉のネットワークを構築してきたのに、しばらく見ないうちにひどい褥瘡ができていて・・・。在宅で見ていた方がよっぽどましじゃないですか。悔しい。


あれまー、背中に壊死を伴う褥瘡が!

死んだ組織はメスやはさみで除去して・・・

数日後、まだ化膿している・・・洗浄してイソジンシュガーにしましょう。

更に数日後、いい肉芽ができてきました。
悔しいとは言ってられない。ベストを尽くすのみ!

つらいとは言ってられない

新潟に比べれば、昔に比べればたいしたことない雪ですが・・・久しぶりに降ると・・・やっぱり困りますね。看護師は訪問看護に行っているので、一人で往診ですわ。愚痴を聞いてくれる相手もなく、屋根雪をくぐってお宅を訪問したり、車を下に置いて歩いて訪問したり、雪の往診は大変です。
これが仕事や、がんばらんかい!

がんがん見つけるぞ!

私たちの仕事の一つは、癌をできるだけ早く見つけること。一人でも患者さんの命を守ること。

 胃癌・食道癌について、早期癌は100%近い治癒が見込めますが、進行癌でも医学の進歩により病院の先生のお陰で助かるようになってきました。進行していてだめかなと思っていた患者さんが、完全治癒で退院していらっしゃいます。

 内視鏡に関して、なるべく苦痛のないように努力しているつもりですし、見逃しのないように繊細に見ています。バリウムを飲むより楽という人がたくさんおられます。下に最近の食道癌と胃癌の症例について呈示しました。ちなみに、現在では日本人の2人に一人は癌になります(夫婦のうちどちらかは癌になると言ってもいいでしょう。自分だけは大丈夫という考え方はちょっと通じないと思います)。・・・全ての癌を合わせると、うちでは毎年20人弱の癌患者さんが見つかっています。自分の体は「自己責任」で管理してください。


食道癌

食道癌

左の症例の切除標本

早期胃癌

進行胃癌

早期胃癌

早期胃癌

早期胃癌

進行胃癌(スキルス)

進行胃癌

早期食道癌

進行胃癌

進行胃癌

左の症例の切除標本

右:従来の内視鏡(直径9mm)
中央:極細内視鏡(直径6mm)

まだに咬傷

 マダニって知っていますか? 山に行くと咬まれます。時々、そうですね1〜2年に1例くらいやってきます。当事者は「できものができたのかな?」とか「いぼが大きくなった」とか、あんまり自覚はないようですね。血を吸いながら大きくなってきます。

 取るのは簡単ではなく、やさしくお尻から引っ張ってあげないと、口が皮膚の中に残ってしまいます。口を残してしまうとその後に炎症を起こしたりすることあります。聞いた話ではセロハンテープを貼っておくと、翌日にはまだにがお尻が自由に動かなくなってイヤイヤ口を離すそうですが・・・私はまだやったことありません。

やさしく取った後はどうするかって、ですか? 試験管に入れてミイラにしちゃいます・・・これって残酷?

治したという印象

在宅で診ている患者さんで困るのは、寝たきりになったために起こる床ずれ(褥瘡)ですが、この頃は基本的に、消毒しない、乾燥させない、洗浄が基本、死んだ組織(壊死部)は積極的に除去という作戦が効を奏しています。普段診察している人は未然に防いでいるのですが、急に往診依頼があった時に時々ひどい床ずれに遭遇します。

症例:90歳代女性

診断:認知症、骨粗鬆症、逆流性食道炎・食道潰瘍

写真1.

5月9日に褥瘡ができたと言われて往診した時の写真です。
  壊死した部分があります。大きさ8cm。
  生食洗浄、プロスタンディン塗布、パッド付きフィルムドレッシングを継続
  途中で何度か、壊死部を切除しています。

  その後、生食洗浄、フィブラストスプレー、プロスタンディン、フィルムを
  継続し、肉芽の増殖が一気に進んできました。

写真2.

7月1日には、壊死部がほとんど除去され、肉芽の盛り上がりが著明です。ずっと週3回で訪問診療を継続していましたが、回数を減らし、家族の人にプロスタンディン、ガーゼ、フィルムを継続してもらいました。

写真3.10月31日には完全治癒しました。

消毒は全くしていません。入浴はしてもらいました。
ただし抗生剤はクラビッドを数ヶ月使い続けました。
また、十分なミネラルが入っていないと考え、栄養剤ラコールを毎日1包継続。

基本的には、
1)生食洗浄
2)消毒しない
3)乾燥させない
4)栄養補給・・・亜鉛や銅など
5)抗生剤内服
           で、治癒に持ってこられたかなと・・・。


「死に病(しにやまい)やな・・・」

もう11年前になります。「先生、えらいから往診してくれ」と頼まれたのは。
往診して、ひどい貧血に気がつきました。

私:「○○さん、どこかから出血してへんか? 貧血があるわ」
○○さんは、しばらくどうもないという顔をしていましたが、何度も確かめる私に、恥ずかしそうにズボンをめくられました。
見せてくれたのは、鼠径部の黒い皮膚腫瘍でした。
そこから出血がじわじわとしていました。

こ、これは・・・   「病院へ行って診てもらわんと」と、受診を促す。○○さんは嫌がっていましたが、家族に説明して病院へ受診、そのまま入院となりました。出血していた腫瘍は手術で取ってもらいましたが、病院の主治医からは「もって3ヶ月。治療法はない」と言われたそうです。

その後は、自宅に帰り、月に1度診療所に来てくれました。
私:「今日はなんで来られましたか? 歩いてですか?」
後から家族の人からの話しでは、私がいつもこの質問をしていたとのことです。
私はいつも貧血や他臓器への転移を心配していました。

しかし、○○さんは、「歩いてきました。畑をしているんや」とくったくない。

5年生存率は10〜20%のはず。病院の医師からも3ヶ月の命と言われながら、何年たっても同じように診療所に診察に来る姿に、「この病気は完治するんかいな」と驚きました。

2年前、「気になるからカミソリで切ったら大きくなってきた」と言って受診されました。明らかに原発巣の増悪でした。見る見る間に大きくなる腫瘍を見ながら、再度病院受診を勧めました。しかし病院では、「なんでこんなになるまで放っておいたんだ」と怒られる始末。○○さんは、「もう病院にはいかん」とご立腹でした。

しかし、この選択は正解だったかもしれません。強力な抗癌剤治療をすることなく、自宅で畑仕事や炊事をしながら過ごしていました。半年前くらいから歩けなくなり、寝たきりに近くなりました。腫瘍はあちこちに転移し、大きいところは10cm近くなりました。

私が「痛くないですか?」と聞いても、
「痛いことはない。もう死に病や。先生、絶対に病院には行きとない。最期まで診てえな」と言う○○さん。
家族も、「寝ている間にすーと死ねるとええなぁ」と。

明らかに死を受け入れて生活しておられる○○さん家族。あわてることもなく、生に対する強い執着もなく、淡々と過ごしておられる姿は、研修に来られたドクターや学生さんにとっても新鮮だったようです。

癌細胞自体も、最初のうちはどんどん大きくなってきましたが、患者さんの体力が落ちるとともに、活動を停止し始めました。腫瘍自ら壊れていきました。出血を止めるのが大変でしたが、だんだん出血もしなくなりました。癌細胞自体が、「この人間が死んだら我々も死に絶える。できるだけ生き延びたい」という意志を持っているかのようでした。

最期の数日は、少しえらがる様子でしたが、最期まで家族の声は通じていましたし、私の往診の時もうなずいたりしていてくれました。近所の人も気にして毎日訪問しておられたようです。すーと息を引き取られました。

亡くなった報告を受けて深夜に看取りに行きましたが、既に近所の方々が集まっておられました。その後も真夜中だというのに次々に近所の人が集まってこられ、本当にいい最期を迎えることができたのだな、と思いながら帰途につきました。


人生の岐路(高校編)

 子供たちも大きくなってきて、試験がどうのこうのいう時期になってきました。子供たちには「将来何になりたいのか、自分で考えなさい」と伝えてきたつもり。ただ・・・「楽してお金がもらえる職業って何?」と、極めてゲンキンなやつら。自分の頃はどうだったのだろう? 振り返ってみました。(いつの日か、自分の子供も読むであろうと思いつつ)

 高校時代の初めは、入学式。本当にトップだったのだろうか、今でも怪しいんですけど、入学式で総代として訥々と、宣誓文を読ませていただいた。まあどうでもよいとして、虎姫高校に一緒に行ったのは、鏡岡中学校81人のうちの10人。家から余呉駅まで自転車で4km、余呉駅から虎姫駅まで20分、虎姫駅から高校まで歩いて1.5kmを毎日往復していました。同級生 男4人が、銀河鉄道999のような北陸線の古い列車の中で向かい合って3年間をともにしました。

 高校の授業で面白かったのは理科(化学、地学、物理、生物)、古文だったでしょうか。古文は脇坂でんべえ先生という面白い先生で、つれづれなるままに・・・の徒然草から順に、暗記して職員室で朗読していました。全部言えると一つ○がもらえました。上松という同級生と仲良くなり、彼の暗記力には脱帽しながらも必死でついていきました。正月に百人一首大会があったのですが、上の句数文字でかるたを取り合い、予選から準決勝、決勝まで進みましたが、私は3位、上松が優勝していました。

 数学は、1学期の中間で60点台を出してしまいショックでしたが、期末で100点と取り戻しました。しかし夏休みにダレたのか2学期はじめの実力試験で、再び60点台。これはめっちゃショックでした。学年でも27番くらいまで落っこちました。この時が高校時代の第1の分岐点でした。あとは、もう勉強ばっかりの毎日。朝6時に起きて、1時間かけて学校に行き、休み時間も復習し、放課後はクラブ(バレー部)、その後1時間がかりで帰宅し、勉強。12時に就寝の毎日。今から思うと何を考えていたのでしょうねぇ? よくわかりません。

 夏は苦手だけど冬は得意になる体育。マット運動や鉄棒は得意で、体育館のフロアでバック宙に成功し、鉄棒では大車輪を習得しました。バレー部では補欠でした。しかし中学で優勝しているびわ中出身の同級生がおり、チームは長浜商工・近江高の双璧は別格として、ベスト4に入っていました。

 2年生になってから、バレーの練習をしていて、突然保健の先生から「運動禁止です。ドクターストップがかかりました。病院の循環器科に行ってください」と言われたのが第2の分岐点だったのでしょうか。心電図が完全房室ブロックだったらしい。病院の循環器科に行って、問診・診察、そして心電図、マスターダブル心電図をとってもらい、採血され、再び診察室へ。「ウェンケバッハ周期のために房室解離を起こしている。激しい運動でなければしてもいいでしょう」って。なんで養護の先生、そして病院の医者にそんなこと言われなあかんの? 自分は何ともないのに。悔しい思いをしながら、いつかは見返してやりたいという気持ちも生じました。医者に自分の人生を決められるのは嫌や〜! 言われた人間の気持ちがどんなかわかるんか?(怒)

 しかしこの心電図問題を機に、バレーを続ける意欲も一気に失せ、クラブを辞めました。それでも家に帰って毎日山道を4km走るか、縄跳び二重跳び1000回を続けました。

 化学の大石先生の授業はとっても楽しかったです。化学反応、化学式・・・。数学と同じようにパズルを解くような楽しさ。先生の発言ミスを指摘したり。同級生の松田は、化学クラブに入っていたので、時々放課後に立ち寄って見ていました。「何してるん?」と聞くと「ビニールを作っているんや」とビーカーの中から、ビニール膜をすくい上げていました。「面白い。大学では化学がしたい」とずっと思っていました。目指すは京大工学部応用化学科!(新しいプラスチックを開発してみたい!)

 2年生の3学期、机に向かっていると、突然藤谷という同級生がやってきて「お前、医者になれ」と言い出しました。「おいおい、何なん? 全然わからへん」と言うと、「俺は『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』という本を読んで感動した! お前も読んでみな。そして医者になれ」 ・・・今から思ってもよーわからない出来事です(藤谷、自分が医者になったらええやんか)。でもこれが工学部→医学部に変更した高校時代第3の(そして最大の)分岐点でした。

 たしかに『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』を読んで感動しました。沖縄で繰り広げられた医療、医師の癌との格闘。二人目の子供を見ぬまま癌で亡くなっていった医師の姿。医者っていう世界があるんやなぁ・・・。ちょうどそのタイミングに、父から「お前、医者にならへんか? 余呉町の医者がそのうちいなくなる」と。 確かに自宅の隣にあった診療所の先生は他界されてしまい、中之郷に夫婦で医師がおられるが、跡継ぎがないらしい。なれるんなら診療所の医者になってみようか・・・。

 と考えたものの、いきなりの医学部への転向、右も左もわからない。親戚にも医者関係は皆無。京大は無理やろー、広島は原爆のイメージ、56豪雪を経験して以来雪国(金沢)はパス、三重大がいいかな、でも禅も勉強したいし京都府立医大や。と、いい加減な気持ちで京都府立医大を目標としました。妹の手術もここでしてもらっていて何となくイメージもいい。

 ここでまた登場するのが上松。「僕のいとこが自治医大に行ったんや」と。自治医大? 聞いたことない。でも調べてみると虎姫高校から毎年自治医大に1人か2人入学している。僻地医療? 滋賀県には余呉町より田舎はないから、どこに行っても大丈夫やろ。親からは「私立に行かせる金はない」と言われていたけど、自治医大はお金がかからない。 しかし、予備校の模擬試験では、自治医大は、私立の中では慶応医学部に次いで2番目の偏差値でした。めっちゃ難しいやんけ。(しかしこれにはカラクリがあって、各都道府県別に選抜されるので滋賀県は有利なのでした)

 高校3年まで、2番か3番くらいの所にいたのでしょうか。でもどうしても越えられない人がいました。野口君・・・、どんなに自分が勉強しても1番になれることはありませんでした。3年生では、数学の時間に授業を聞いていると、先生が「授業など聞いていないで、自分の勉強をしなさい」と怒られる始末。授業中に先生にこんなこと言われるのっておかしくない? 変な高校でした。

 共通一次試験は、大丈夫と思っていた国語の古文・漢文で大敗し(140/200)、870点台でした。京都府立医大のボーダーが880点だったので、結構きつい。二次試験がやばいなぁと思っていました。ところが、1週間後にあった自治医大の一次試験、数学・理科・英語・作文・面接・・・学科はほとんど完璧にできました。「魔が差す?」というか「はまった」というか、どんぴしゃでしたね。

 お陰で一次試験突破。栃木であった二次試験の学科(理・数・英)・心理テスト・集団面接・個人面接も、無事に突破でき、めでたく白亜の巨塔、自治医大に入学できたのでした。

・・・大学に入り、ようやく遅咲きの青春を謳歌することとなりました・・・大学3年、今の妻と出会い、人生がまた90度変わる・・・


ラップ療法(半閉鎖式療法)

年末年始の数日間の休みの間、30数人の在宅の患者さんが気になっていましたが、なんとかたくましくお過ごしでした。U先生の残していったラップ療法患者さんの経過を報告します。全例にいいとは限らないと思いますが、試してみる価値はあると思い提示します。(なにせ安い! 水道水とコメリで買った300円のオイルボトル、ラップ、小さな穴の開いたテープだけ)

ご家族からの了解を得てアップしています(というより、ご家族が是非載せてくださいとおっしゃいました)

症例:79歳女性
主訴:仙骨部褥瘡

既往歴:多発性脳梗塞、変形性股関節症

現病歴:
 多発性脳梗塞、認知症、変形性股関節症で、ADL低下し、四肢拘縮して寝たきり状態(B2〜C1)の患者さんです。10月頃から仙骨部の発赤がありました。

 11月末、ついに仙骨部が壊死を来たし深い褥瘡となりました。

(写真1)12月6日の褥瘡の状態です。膿が貯まっており何度も壊死部を切除、排膿しました。

(写真2)水道水による洗浄→ラップのみで経過観察。傷からの液が漏れてもいいようにラップの周囲を小さな穴あきのテープで固定しています。

(写真3)12月16日の褥瘡の状態です。ポケットの大きさは7cmになっていました。不良肉芽を除去し、洗浄、ラップのみ。

  家族も協力的で、1日2回、微温湯洗浄、ラップをしてもらいました。

また、デイサービスを併用しながら、訪問マッサージを依頼し、関節の拘縮を和らげてもらいました。

(写真4)1月4日、褥瘡の状態です。ポケットの大きさは5cmまで縮小しています。

(写真5)1月18日の状態ですが、ポケットの入り口は塞がりかけていますし、ポケットも直径4cmまで小さくなっています。

培養ではMRSAという耐性菌が出ていますが、現在では常在菌ですので気にせず、デイサービスの入浴などを継続してもらっています。(病院と違って、MRSAに対する差別ともいうべき対策は必要ないです)


(写真6)2月15日の状態です。ほとんど塞がりました。液が漏れてくることもありません。

考察:
 洗浄&ラップという方法で改善していましたので、ご報告します。

家の人がいうには、サランラップじゃなくって、クレラップにしてよかったとのことですが、本当かどうかは知りません・・・。


新しい傷の治療

2006年1月、伊吹山テレビにて シナリオ 素案
登場人物 患者:社協中川君、ばあちゃん:愛らんど谷川さん、医師:畑野
場所  診療所

1)ケガをするした患者さん登場する(傷を描いておく)
2)親切ばあちゃんが連れてくる
3)「消毒してくれ」と
4)医者「今は消毒はしないんですよ」

5)昔の治療をやってみる。
以前はね、ばい菌をやっつけるために消毒して、ガーゼを載せて乾かしていました

6)今の治療をやってみる。
今はね、消毒はばい菌をやっつけるだけでなく、治ろうとしている自分の細胞までやっつけてしまうから、治りが遅くなってしまうんですよ。消毒の代わりに十分に洗うことが大切ですよ。

7)ガーゼを載せて乾かすのは良くないんですよ。傷を早くきれいに治すなら、乾かさないようにするのがポイントです。ガーゼが良くないのは、せっかく治ってきた皮膚をはがしてしまうからです。かさぶたができたら治ると言われてきましたが、かさぶたを作ると治るのが遅くなります。

8)傷が乾かないようにフィルムで覆います。そうすると体液が出てきて治るのが早くなります。

9)写真提示:

例えば、目の上をけがした患者さんがありました。消毒はしません。


丁寧に洗って、アルギン酸塩という綿をかぶせます。アルギン酸塩は傷が乾かないようにし、強力な止血効果を持っています。その上にフィルムを貼ってみました。



 1日半たったのがこれです。黄色くなって膿んでいるように見えるかもしれませんが、体液が貯まっているだけです。剥がしてみるとこの通りきれいに治ってきています。


10)写真提示:

また、幼稚園の子供の擦り傷ですが、ほおって置いたらかさぶたになってしまいます。かさぶたになると治りが遅くなり、痕が残りそうです。


ケガをした夕方、きれいに洗ってからアルギン酸塩を載せ、フィルムをかぶせます。


翌朝の状態を見てください。かなりきれいになりました。


11)家や学校ではどうしたらいいでしょう?

1)まず水道水できれいに洗いましょう。消毒する必要はありません。
2)フィルムなどで覆いますが、薬局に売られている物もあります。
3)傷が大きい場合など、気になる場合は医療機関にご相談下さい。

12)新しい傷の治し方ですが、

1) 消毒はしません
2) きれいに洗って、砂やゴミを取り払うのが大事です。水道水でも大丈夫です。
3) 傷は乾かしてはいけません。かさぶたを作らない方がきれいに治ります。
4) ガーゼで覆わないようにしましょう。せっかく治ってきた皮膚がガーゼと一緒に剥がれていまいます。
5) 切り傷、擦り傷、やけど、床ずれでも同じです。

13)患者&ばあちゃん: ようわかりました。ありがとうございました。


三途大橋 & 三途ハイウェイ

ひとつの実話。

一昨日、

夜に電話あり、「母の容態がおかしい」と。
100才を超えたおばあさん、息絶え絶えでしたが、息子さん達が一生懸命でした。
「もう間がないでしょう」とお伝えすると、
ご家族(兄弟、子ども家族、孫家族、ひ孫)、ご近所が16人も見える中、皆さん号泣。

特に小学生のひ孫さんが、声を出して泣いていたのが特に印象的でした。
ああ、このお婆ちゃんは、ひ孫さんに自分の死を通して生きることを伝えているなぁと。

皆さんに囲まれながら(ここ数日、持続点滴もしているのですが)
家族
「まだ三途の川に行くのは早いぞー」
「三途の川から帰って来いよー」
「○○がまだ来てないし、逝ったらあかんぞー」

「ぬれたガーゼで口の周りを拭いてやれや」
「おお、吸うとるぞ」  (みんな笑い)
「それでは飲ませすぎや」
「いやどうもない」  (笑い)

素晴らしい儀式が行われていました。
最期のお別れの場面となり、孫やひ孫に伝える教育の場面となっていました。
お孫さん達は、おそらく30年後に優しく親のお世話をされるでしょう。

・・・ところが、三途の川から帰ってきてしまったのです。
触れなかった脈が触れるようになり、顔の色も赤みが出てきました。

私「三途の川から帰ってこられたので、しばらく私は帰っています。また呼んでください」

そしていつ呼ばれてもいいように家でスタンバイしていましたが、朝になった今も
連絡がないということは、ほんまによみがえったのでしょう。

このお婆ちゃん、泳ぐのが得意だったのかなぁ? 向こう岸からターンしてくるなんて!

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昨日

とうとう100才のおばあちゃん,今朝お亡くなりになりました.

弟さんから話を聞きました.
「数ヶ月前に,具合が悪くなったとき,姉さんが言っていました.
きれいな橋ができていた.道もきれいやった.
橋を渡ると,花がいっぱい咲いていて,それはそれは美しいところやった.
仏さんもたくさんおられた.
道の向こうに一人の女性が立っていた.
『○○とちがうんか?』
『お母さんか?』
『何しに来たんや?』
『極楽を見に来たんや』
『ほうか,ほしたら案内したるわ』
と言って,極楽を案内してもらった」

・・・臨死で、極楽を見学に行ってこられたようです.
それはそれは美しいところのようで,死んでも安心です.
今は一生懸命生きて,あの世は楽しみに残しておきましょう.

それにしても現代社会だけあって,三途の川に橋ができて,道もよくなっているようです.
先輩が見に行ってくださったので安心.

・・・合掌 (写真は小泉の長命地蔵)


我が家最大の危機

他人の子どもだったら、2日目には採血をしていたし、4日目にはエコーをして、病院に送ったと思いますが、自分の子どもだったために判断が遅れたと思います。医師の子どもの運命かもしれません。元気に回復しましたが、お腹には大きな傷を残しました。体質も変わりました。ただこの経験をプラスに生かして、人のためになれる人に育って欲しいというのが親の願い。<掲示板への書き込みの記録より>

2007年 6月28日(木)
子供はまだ
胃腸炎で苦しんでいますワ・・・2日間点滴したのですがね〜。
がんばれぇ〜。
親には苦しいともしんどいとも弱音を吐かず、でも吐いたり下痢しているんですよね、
点滴のときもなんとも言わず刺されている。点滴が終わる頃には少し元気になる。
・・・けなげです。



2007年 6月 30日(土)
子供が、もう4日寝込んでいます。
最初は嘔吐で発症、その後腹痛、最近は下痢・・・。
2日ほど点滴したらよかろうと、放っておきましたら、5日目の今日もまだ腹痛、下痢、発熱。
妻に言われて診察したら、アレマ! 
腹膜炎起こしているやんけ!
ヤバッ
1000ml点滴し、抗生剤を使用しました。んんん、自分の子供は手抜きしてしまう・・・許せ
私は針を刺すだけで、点滴の処置はNs.の妻がやってくれました。感謝。


2007年 7月 1日(日)
子供は、
虫垂炎の可能性が大きくなり、点滴しています。
土日は病院の先生に申し訳ないので、明朝検査をしてから病院に紹介するつもり。



2007年 7月 2日(月)
こども,エコーと採血にて,
急性虫垂炎,穿孔,腹膜炎と診断しました.
病院へ紹介します.手術となるでしょう.


子供の手術は無事終りました。小児科の先生、麻酔科の先生は、うちで研修した先生でした。外科も知り合いで。
もっと早く送ってくれてもよかったのにと言われ(^_^;)。
やれやれ・・・しかし、痛いのによく辛抱していたと思います。

それしても、今朝、エコーと採血して驚きました。あまりにひどい炎症に。
よく文句も言わずに耐えていたわ。『手術やなぁ』と言っても、『ふーん』と平静でした。信じられない。
病院の看護師さんも親切です。
午後8時と午前6時に痛みのため、座薬を使いました。熱は36.9℃で落ち着いています。
実家、わが家、学校など多くの人が心配して下さり感謝です。


2007年 7月 3日(火)
トムラウシさん、TN&TNさん、ありがとうございます。
今朝、はた爺と交代→妻→広島のじじばば→妻 と付き添っています。

実家の父母4人とは、掲示板で情報提示しているので、話もスムーズに進みました。
子供のおかげで、家族が集まれたと思います。・・・常にポジティブに考えましょう!
2007年 7月 4日(水)
家では、広島の両親が待っていてくださいました。
こどものお見舞いには、クラスの同級生達、学校の先生方、弟家族など、ありがとうございました。
11歳の誕生日を病院で迎えたこども。

2007年 7月 5日(木)
外科の先生よりMLに送信頂きました.(私が症例呈示したものですから)

『あまり疼痛を訴えない、我慢強い子供でした。
ただ、虫垂炎の膿瘍としてはまれに見る大きさでした。
CTでも膿瘍内にエアーがあり、おそらくガス産生菌だと思います』

うむうむ,珍しい症例でしたか・・・.珍しくしちゃったか?

子供のこと,お見舞いありがとうございます.
昨日は無事,ガスも出たようです.
2007年 7月 13日(金)
いいことばっかりじゃないですね。
子供の容態が悪くなっているらしい。WBC 16000, CRP 4.0 と増悪。
ウィークディは、仕事で疲れてしまってみにいけませんでした。
明日は一日見るつもり。
2007年 7月 14日(土)
夕べから病院におりました。
子供の容態は、朝から主治医の先生が来ていただき、またベテラン先生もエコーを持ってきてくださいました。
ついでにCTを撮り、下腹部の膿瘍、腸管の肥厚および麻痺性イレウス状態のようでした。
抗生剤を変更してもらっていますが、39.8度まで熱が出て、そのたびに弱っています。

2007年 7月 16日(月)  再手術(膿瘍を排出、洗浄し、血色の悪い小腸を70cm切除)
2007年 7月 17日(火)
七夕の時の願い事が枕元に
もうすぐ術後24時間たちますが、まだ苦しんでいます。痛み止めが効かない。
ただひたすら腰の辺りをさすってあげることしかできません。
まさしく『手当て』。お腹に向く痛みが、手当ての刺激でそがれますように。
モルヒネで時々無呼吸になるので、呼吸を誘導してあげるように。
子供は夕べはほとんど寝ておらず、ひたすら「痛い」と言っていました。
朝、妻と付き添いを交代し、少し仮眠してから、午後診に入りました。
妻からの連絡では、昼間は少し痛みが改善し、WBC 13000, CRP 14 とのこと。
しかし夕方から再び強い痛みが出てきて、泣く声も出ないくらいかすれ声でうめいているそうです。
何も望まない、ただ「生きていて」ほしいと願うだけ。

夢を見ているような気がしますが、現実。

2007年 7月 18日(水)
お見舞いの言葉をたくさんいただき、ありがとうございます。
仕事を終えて(というか中村先生にお願いし)、病院にきました。
痛みと疲労でかなり消耗している子どもです。
なんとか麻薬で落ち着き、テレビを見ることができる状態です。なかなか・・・(;_;)

2007年 7月 19日(木)

こどもは・・・病院のスタッフの方々、皆さんのおかげで、改善傾向。
水分摂取可能となり、「お腹すいた」と言い、WBC 7800, CRP 8 となっています。
さすがに痛みはまだあるようですが(小腸を70cmも切ったので) やれやれ・・・

2007年 7月 22日(日)

私は朝から病院にいます。子どもは3口くらいで飲めてしまいそうなおもゆをゆっくり? 一気に? 飲めるようになりました。
経過がよければ、月末頃退院できそうです。ほっとしています。
私たち夫婦が結婚式をあげた八幡神社へ、子どもの病気が早く治るよう頼んできました。
2007年 7月 29日(日)
入院していた子供が試験外泊となり,ようやく家に活気が戻ってきました.
上の子二人はホッケー三昧の毎日.
下の子二人は誕生日プレゼントのWiiで,遊びだしました.

子供は調子よければ明日退院予定です.
大変だった7月もようやく終わります.  
じじばばには大変お世話になりましたm(_ _)m
8月は,我が家にとっても(ホッケーで燃える)熱い夏になりますように・・・