実家に帰ってきました。例年になく雪が少ない2014年は、父母たちも雪どけする必要もなく、楽そうな表情です。お正月に地元の年賀式に出席した際、先輩・後輩から「余呉の診療所の先生が辞めやはった」と聞かされました。「なんとかならんか?」と聞かれるも、急に言われても何ともなるわけでなく、いずれは何らかの形で恩返しはしたいと話しました。
高校3年生の時に、これまで余呉から育った医者がいないため、自分がなろうと思ったのは、もう30年以上前。その後、余呉にいい先生が来ていただいたので、私が帰らなくてもいいことになり、知らない土地である伊吹で頑張らせてもらうことになりました。
父が余呉町役場のダム推進対策室の室長になったのは昭和40年代。全国のダム建設地を視察に行ったり、地元の住民と交渉を進めたりの半生涯だったように思います。子どものころは毎晩帰ってくるのが遅いし、土日もいないので、父親とはあまり会わないこともしばしば。酒の付き合いで肝臓を悪くしていたこともありました。
今年ようやく丹生ダムの問題に終止符が打たれ、幻のダムということになりました(2014年1月16日、中止が決定)。今日は久しぶりに丹生の方に足を運びましたが、菅並までしか行けず、通行止めになっていました。その奥の小原、奥川並(おくこうなみ)、鷲見、針川、半明の集落は小学校時代、中学校時代、遠足で歩いたり、自転車で川遊びに行ったり、思い出深い地域ですが、もう足を運ぶことができません。奥の集落の人たちは、余呉町内、あるいは高月町に転居されましたので、ある意味では時代を先読みできていたのかもしれません。。
父は、今では丹生ダムのことは何も言いません。16年間の町長時代には、ダム建設を推進し、保健・医療・福祉の複合施設を建て、余呉湖の水質改善事業、余呉発酵研究所の開設、幼稚園・保育園の一元化、3小学校の統合など、いくつもの事業を進めてきました。過疎債を利用して箱ものを建て借金をしてきましたが、なんとか余呉が今後も存在し続けられるだけの資源を持つことができたのではないかと思います。(余呉町の延命策としての放射能最終廃棄物処分場に手を上げようとした件では、住民よりNOを叩きつけられ退陣しましたが妥当なところでしょう)
丹生の菅並集落のほか、摺墨(するすみ)、上丹生、下丹生、橋本集落は、まだまだたくさんの家が残っており、そして住んでいらっしゃいました。若者は少なくなり、店は少なくなり(木之本や高月まで出れば店はたくさんあります)、ふるさと余呉を、いつまで見続けられるかわかりませんが、地域住民がいらっしゃる以上は、住みやすいまちを目指さなければだめなんでしょう。 どうします?
丹生地区、現在最も北の集落となった菅並集落。たくさんの家が立ち並んでいます。ダムはこの北部に作られる予定でした。結局ダムは作られないことに。
洞寿院・・・古刹(曹洞宗)
妙理の里という観光(文化)施設があります。バーペキューハウスなどあり
丹生川→高時川→琵琶湖に流れます。雪が融けてで水量は多いのではないでしょうか。
廃校となった丹生小学校・・・今は別の施設として利用されているようです。小学校、中学校時代にはよく遊びにいっていました。
上丹生から支流に上がったところにある摺墨(するすみ)集落、やはり人が住んでいらっしゃいます。自分の実家である今市集落とは山の反対側に位置します。
上丹生集落・・・平地があり田んぼが増え、家の屋根も急峻でない(積雪量もそれほど多くないからか)
余呉湖に向かいました。中学校の頃は駅伝の練習で時々走っていました。向いは賤ヶ岳です。
カモたちがたくさん泳いでいます。人が近づくと逃げるので野生のカモでしょう。
余呉湖畔にたたずむ「蛇の目石」。謂れは・・・下記
雨乞いのために身を犠牲にした菊石姫の伝説。
うっそうとした林は、むかし賤ヶ岳合戦の時にも、兵士が身を隠すのに都合がよかったようです。
余呉湖の南から北の方向を見る
余呉湖の東から西に位置する川並集落を見る。同級生の家や、徳山鮓などの店もあります
ワカサギ釣りの所だけは賑わっていました。釣れますでしょうか?
余呉の観光地。今の時期ならお勧めは余呉高原スキー場か。黒田官兵衛ゆかりの地も近い。
余呉駅のホームに屋根がついていて驚きました。進歩や〜。(高校時代通学時は何もなかったので)
天女の羽衣伝説のある柳の木・・・昔は湖畔に位置していたのでしょう。
天女とは朝鮮からの使者だったのではないでしょうか(チマチョゴリを来た女性)。滋賀県には京都に向かう朝鮮人街道と呼ばれる道もあり、朝鮮通信使がよく通っていたのではないかと思われます。菅原道真公が子供のころ、一時住んでいたといわれる菅山寺が近くにあります。