(平成14年8月25日〜)
毘沙門天立像:
高さ178cmの立像で、兜を頂き、甲をつけ、左手は持物を乗せ、右手は槍を握っておられます。材質は樟(クスノキ)で、もともとは彩色されていたようです。通例の毘沙門天像とは違い、やや荒削りで地方作風の像ですが、動きを控えた体貌古様があるとされ、12世紀(平安後期)の作とされています。足元には餓鬼を踏んずけています。右の天部形立像とともに、平安から鎌倉時代にかけての伊吹山寺院の隆盛の様子を伺わせる貴重な仏像です。
天部形立像:
天部の姿をしておられ、材質は楠(クスノキ)で彩色がされていたようです。高さは167cmで11世紀後半(平安中期)の作品とされています。
弘法大師像: 長尾寺は650年頃は法相宗(ほっそうしゅう)でしたが、820年頃弘法大師が布教に訪れて真言宗に変わったと伝えられています。毘沙門堂内には、平成12年に修復された弘法大師像が安置されています。
材質はケヤキで、鎌倉初期に作られたとされています。
長尾寺の毘沙門堂を更に登っていくと、散策路が整備されています。七福神の石や、十二将軍の石、はたまた変わった形の石が飾られています。ぐるっと回っても1キロくらいですので30分もあれば一回りできます。
散策路
七福神
七福神
権現堂
十二将軍
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旧毘沙門堂
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丸太橋
伊吹山の麓、姉川をさかのぼったところに大久保集落があり、その高台にある惣持寺は、今でも地元の人たちは長尾寺といっている。これは白雉2年(651年)、慈照尊者が創立した長尾護国寺の後進として、跡目を継いでいたためである。
開山当初は法相宗であったが、その後天長年間(824〜833年)に真言宗となった。
仁寿年間(851〜853年)に僧三修が弥高寺、観音寺、太平寺、長尾寺をひとまとめにして、伊吹山四大護国寺を創建した。
元慶年間(877〜884年)、長尾護国寺は定額寺に昇格した。更に文和年中(1352〜1355年)に中興の祖の深宵が、小泉地先の天涯を砕いて水流をよくし、耕地を広げ、住民の利を計ったことは有名である。永正年間(1504〜1520年)に兵火で堂宇消失したが、その後再建して、49の堂塔が並ぶ巨刹となった。天正年間(1573〜1591年)、再び織田信長軍の兵火にあって全焼した。今は1350年の歴史を有する名刹とも思えない。山腹に建つ渋い小寺である。左手奥にある旧長尾寺遺跡散策順拝コースは、約1キロ、30分だが、途中の毘沙門堂に安置させている2体の天部の仏像は、極めて異色で面白い。
毘沙門堂といっても、このお寺のご本尊は、何ともしれない木製天部形の立像である。高さ178cm、等身大をやや上回る位だが、見たところは何ものか全く分からない。平安時代前期の作といわれるが、作者ももちろん分からない。前に紹介した伊吹山護国寺から伝わる遺物は確実に貴重な文化財とされているが、われわれが見ると、何とも不思議なお像で、日本で製作されたとは思われず、中国大陸から来たのではないかと思われる雰囲気を持っている。寺伝では唐の僧恵果の作と伝えられ、秦の始皇帝の兵馬俑を彷彿させる県の重要文化財に指定されている。 おなじ毘沙門堂の中に、同じく県文化財に指定された実に簡素な平安時代中期の毘沙門天像があり、近江びわこ七福神めぐりの一参拝所になっている。このお像は、前に紹介した天部形のご本尊の前にある御前立であり、ご本尊より製作年代は下るが、豊満体躯で、藤原時代の作のようである。
この2像、実は先年まで、裏山の奥の院の荒れ果てた毘沙門堂の中にあった。それが近年本堂裏の近くにおろされて、新しい毘沙門堂におさめられた。また各像も補修され、天部像の欠失していた左手先や、右指先も旧観とかなり変わっている。しかし、県指定の重要文化財ながら、この天部像の異様さは、ものすごく興味をわかせるものがある。是非、訪ねてみて欲しい。 (大石眞人著、山と渓谷社、「近江路の古寺を歩く」より抜粋)
長尾寺古跡保存会の皆様