私がこの本を書き写したかったわけ
余呉町に生まれながら、「あの台形の山が賤ヶ岳なんだな」と思う程度に育ちました。昔戦争があったくらいしか知りませんでした。家のそばに「毛受兄弟の墓」って案内があるけど、だれなんだ? 「狐塚」って畑の中のこぶとちゃうんか? そんな事も知らず育ち、中学校の歴史の教科書にも、高校の歴史の教科書にも、一行か二行しか書いていなかった「賤ヶ岳の合戦」。大学に行って、山口県の友人宅にて親御さんと語ると、「おぉ〜、近江の人か。戦国時代の輝かしい地で生れた方たちだな。いろいろと教えてくれ」と頼まれても、全く語る事ができませんでした。
受験勉強はしてきましたが、自分の生まれ育った地域のことには無知な自分を恥ずかしく思いました。
外に出てみないと、中の事は分からないものです。 余呉町・・・ただ余呉湖がある町、スキー場がある町、もっとなんかないの? と思っていた所へ、先週偶然、白崎金三先生の『余呉の庄と賤ヶ岳の合戦』という本を自宅で見つけました。昭和62年の発刊でした。古めかしいカバーとは逆に、歴史小説とも思える逸話が沢山もりこまれていて、のめり込みました。
この山で、この湖畔で、この田んぼで、天下分け目の合戦が繰り広げられ、柴田勝家や羽柴秀吉たちが走り回っていたなんて、すごいロマンを感じました。賤ヶ岳の合戦は、賤ヶ岳であったのではなく、賤ヶ岳を含めた余呉の村中で繰り広げられたのです。この事実を知って余呉に対して愛着を感じるようになりました。
この本は余呉町でしか読む事ができません。というより余呉町教育委員会と茶碗祭りの館くらいでしか売っていません。う〜ん、もったいない。日本全国の人に見て欲しい。そして余呉町で生まれ育った事を誇りに思いたいと思いました。白崎先生のあとがきにも「この度町内に住むものとして、当時の戦士やまた庶民の気持ちを偲び、戦跡をくまなく踏破しました。そして勝敗を意識せず、公正な立場で戦いを振り返り筆を執りました」とあります。多くの人に読んでいただきたいと思います。
写本するに当って、発行者の余呉町教育委員会様、編集責任者の白崎金三様、余呉町図書館司書の田中様には、快い承諾とご協力をいただき厚く御礼申上げます。なお文中で使用した図や写真は、インターネットからとってきたものが多く、申しわけありませんが、ご了承を得ていないものが多くございます。この場を借りてお詫びいたします。
なお、昭和61年に初版が発行されていますが、平成13年に改訂版が出ております。
平成14年5月20日
畑野秀樹
白崎金三先生からお手紙をいただきました (ありがとうございました)
(前略)先日は賤ヶ岳合戦に関するコピーをお送りいただきありがとうございます。役場の方からすぐ回送してもらったのですが、お礼大変遅れ申し訳ありません。何分私も今年は90歳となり老衰の域に入り、気力の消耗と、それに生来の筆不精から気持ちだけは早くお礼を出さねばと思いつつ、今日になりお許しください。
教育委員会勤務中は、ご尊父様には大変お世話になりました。私が曲がりなりにも余呉町誌を始め、いくつかの余呉に関する本を書くことができたのも、ご尊父様のご理解とお力添えがあったからで心から感謝しております。しかし私の書いたものは、自分で書き、自分で校正したもので、その上出版社ではなく、近くの印刷屋で製本したので、今読み返してみると、ミスプリントや誤訳が多く汗顔の至りです。貴殿のような人に訂正していただければ、誠にありがたく思います。この度も新しい角度からいろいろの写真を加えホームページに紹介していただき、ありがとうございます。あの本は、私が中日新聞に賤ヶ岳物語で連載していたものの中から、賤ヶ岳合戦の部分を加筆してまとめたもので、もう一度見かたを変えて賤ヶ岳物語を書いてみたい思いもあります。
今後は貴殿のような人達に託すより外ございません。郷土のため今後もご尽力くださるようお願いします。
平成14年7月1日