京極氏と上平寺

 伊吹町上平寺の集落を少し上がると「京極氏庭園跡」という看板が立てられ、昔、岩や池が配置されていたことをうかがい知る事ができます。この庭園は、1500〜1523年頃、京極高清が作らせたといわれています。
 京極氏について、『余呉の庄と賤ヶ岳の合戦』(余呉町教育委員会の白崎金三先生編集)・『伊吹町史 通史編』(伊吹町史編纂委員会編集)をもとに調べてみました。

 

 宇多天皇の降孫、雅信が源の姓を賜り臣籍に降下してより五代目の信綱(1220年頃)には、重綱、高信、泰綱、氏信の四人の子どもがあったが、上二人は佐々木を継がず、重綱は近江大原に住み大原氏を、高信は近江高島郡に住み高島氏を名乗ったが、あまり名声は挙がらなかった。三男の泰綱は京都六角館と南近江六郡をもらい、観音寺城を築いたので佐々木六角氏と呼んだ。四男氏信は京都京極館と北近江六郡をもらい柏原の館に入ったので佐々木京極氏と呼んだ。

 京極を名乗った氏信は、伊吹山に住む山賊「伊吹弥三郎」を高月町井口まで追い詰め、ここで討ち取ったので、幕府から柏原庄を与えられ、伊吹山上平寺に城を築き、柏原館に住んでいた。

 足利幕府(足利尊氏)は湖北の重要性に鑑み、1345年頃京極道誉(どうよ)を近江の守護として湖北に置いた。京極氏は六角氏と共に近江源氏佐々木氏の一族である。

 湖北の豪族達をすべて配下に収め、長年月にわたり権力を誇ってきた京極氏にも、次第に斜陽の兆しが見え始めたのは、家督相続による京極家内の内紛からである。京極氏の系図は、氏信→宗綱→貞宗→宗氏→高氏(道誉)→高秀→高詮→高光→持高→高数→持清となり、持清の子に勝秀(その子に孫童丸と乙童丸=高清)、政経(その子材宗)、政光(黒田家を継ぐ)とされている。(山東町徳源院には、京極家墓所が置かれている)


 応仁元年(1467年)足利将軍家の相続問題から、幕府の役をしていた細川勝元(東軍)と、山名宗全(西軍)が諸大名を引き入れ京都は戦乱の巷となった。これを応仁の乱といったが、この乱により幕府の威令地に落ち日本各地の豪族はそれぞれ縄張りを作り争うことになった。

 応仁の乱では当時京都で役職についていた六角・京極の両氏もそのうち外にあることは許されなかった。京極氏は細川勝元につき、六角氏は山名宗全につき、以来一族相食む争いに終始するのであった。

 京極11代目の持清上平寺城にあったが、六角氏の本拠である観音寺城をわが子勝秀に攻めさせた。勝秀遂に観音寺城を攻め落としたが、陣中で病のため死亡してしまった。

 勝秀の子孫童丸は未だ5歳の幼童であったため、祖父の持清が後継を守っていたが、持清も間もなく病死してしまった。その後も、孫童丸も6歳で夭折、叔父政光も36歳の若さで世を去り、もう1人の叔父政経は、京極家の後継者は子材宗であると言い張った。しかし京極家正統の高清(乙童丸)を後継者とする者も多く、京極家は遂に二派に別れ、内紛に発展していったのであった。

 高清は、祇園から余呉まで退き、ここで兵を調え戦ったが再び破れ、敦賀に逃げた。政経は高清を近江から追い出すと、それ以上深追いせず、高清に代わって京極家後継者として湖北を支配することになった。

 高清は敦賀から大津坂本に移り比叡山延暦寺の保護を受けていた。足利将軍義材は、政経の湖北における横暴に業を煮やし、高清に湖北の政務を執るように命じたが、湖北に入ることができない。高清は、美濃の斉藤利国に援助を受け、明応2年、6年ぶりに江北に帰る事ができた。しかし高清を援助していた美濃の斉藤利国が戦死したため、高清は再び力を失い、明応5年、政経に追われ海津に逃れた。1499年に弥高寺が焼かれたのは、高清と政経の子材宗との戦火によるものと思われる。

 高清は海津で4年間浪居していたが、明応8年、三たび海津から湖北に帰り、今浜(長浜)城に入った。

 今まで政経についていた老臣、浅井、三田村、河毛らも今度は高清についたので、政経が逆に湖北を追われることになった。長い間、伯父政経に苦しめられてきた高清もしばらく湖北に安住することができ、坂田郡伊吹町に上平寺城(上平寺館、苅安尾城)を改城してここに入った。京極家庭園は、この頃高清によって作られたと考えられる。

 政経の子材宗は三度今浜城を攻めたが、三度敗れ湖北に入ることができなかった。しかし高清も寿命には勝てず、天文6,7年頃上平寺館で余命を終わった。

 高清が死ぬと京極家は再び高清の子高延高慶により相続争いが続き、京極家の威信は次第に落ちていった。享禄元年(1526年)内保河原の戦いで、高延派は高慶派をやぶり勝利を得たが、この戦いで、今まで京極家の家臣の筆頭にあった上坂氏を浅井亮政が敗ってより、浅井氏の勢力が台頭し、主家京極氏を凌ぐようになってきた。

 天文11年(1542年)、浅井亮政が死亡し久政が浅井家を継ぐと、高延は家臣と図り、この機会に浅井を倒し、京極家の威信を取り戻そうとして兵を挙げたが、久政は越前の朝倉氏の援護を受け、各所で高延を敗った。

 天文22年(1552年)11月22日、高延は余呉湖畔に追い詰められ、遂に高延は家臣と共に自害し、余呉湖を血に染めて、長い間湖北に君臨してきた京極氏の勢力は湖北から一掃され、浅井氏が完全に湖北を制圧することになる。

 ちなみに1559年に、浅井長政が元服し、1567年織田信長の妹「お市」との結婚があいなった。


 さて、以上が京極氏にまつわる話ですが、上平寺の集落を少しいくと、このような案内表示があり、右が「庭園跡」、まっすぐ(この写真では左)いくと「伊吹神社」 「上平寺城跡」と書かれています。

 この階段を登ると「伊吹神社」です。伊吹神社は、鎮守としての白山権現が祀られているはずで、京極氏が城館を構えたことから崇敬を集めたといわれます。

 「上平寺城跡」はこの手前を左に上っていくと数十分で着くことができ、上平寺区民の山道整備のおかげで、登りやすくなっています。

 上平寺集落の少し北のほうでは、前述した「上平寺館」の発掘調査が行われています。武家の宴会や儀式に使われた素焼きの皿(土師皿=はじざら)が大量に出土しました。

関連HPリンク

 ★上平寺城(箕浦様)・・・近江の城郭

 ★上平寺城(金澤様)・・・北近江の城

歴史は流れ、その後の戦国時代を、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの武将が勝ち抜いていきました。

姉川の合戦、賤ヶ岳の合戦、関ヶ原の合戦などの天下分け目の合戦が、この湖北の地近辺であったことは、大変興味深く感じると共に、近江を押さえるものが天下(京都)を押さえると考えられていた事を思います。

賤ヶ岳の合戦についても、ここに載せていますので、是非ご覧下さい。