発行者:余呉町教育委員会
編集責任者:白崎金三先生
この文章は、上記タイトルの本を畑野秀樹が余呉町教育委員会および白崎金三先生の了解を得て一部(260ページのうち100ページ)を書き写したものであります。ただし図や地図はインターネットにて検索して載せております。ご了承下さい。
余呉町教育委員会および茶碗祭りの館にて『余呉の庄と賤ヶ岳の合戦』は1200円にて発売されています。読み物として大変面白いので、是非お買い求めの上、読破していただきたく存じます。
目 次賤ヶ岳合戦の前哨戦
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私がこの本を書き写したかったわけ |
これまでのあらすじ天下統一を目指していた織田信長は、1582年明智光秀によって本能寺の変で命を落とした(49歳)。毛利と戦っていた羽柴秀吉は他の武将より一足早く京に向かい、山崎の合戦で勝ち光秀は55歳の生涯を閉じた。 柴田勝家、前田利家、佐々成政、滝川一益らの武将達は、光秀討ち取りに遅れたために立場が逆転し、秀吉有利に「清洲会議」が開かれた。信長の跡目は誰にするか・・・長男信忠は本能寺で討死しており、二男信雄(25歳)、三男信孝(25歳)がいたが、勝家は山崎の合戦で総大将になった信孝を推した。しかし秀吉は信忠の嫡男三法師丸(3歳)を跡継ぎに推し、誰も異議を称える事ができなかった。 領地は、信雄が尾張の清洲城主、信孝が美濃の岐阜城主となった。柴田勝家は長浜城を欲したが、秀吉は勝家の養子柴田豊勝を城主とした。お市の方(36歳)は、織田家再興を願い、勝家(57歳)に嫁いで北陸へ向かった。 |
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柴田勝家と羽柴秀吉の間の溝は信長の死後、次第に深まっていった。そして清洲会議後は決定的なものになっていた。秀吉は信長死後は、勝家との戦いは避けることはできないものと信じていた。明智光秀討伐のときも、勝家にだけは遅れをとりたくないと思ったからこそ、一刻を争って山崎に駆けつけたのであろう。清洲会議を終えて、勝家はまだ清洲に居る頃、秀吉は長浜城に帰り、部下に城明渡しの準備を命じると、休む暇もなく、自分は京に登り、京都を勢力圏に入れる拠点として、山崎に宝寺城の改築を行い戦いの準備を進めていた。それのみではない、高槻城主高山右近、茨木城主中川清秀、郡山城主筒井順慶、三好康長らからは人質を入れさせ、伊丹城主池田恒興、坂本城主丹羽長秀とは盟約を結び、配下の近江比田城主長谷川秀一、犬上郡の山崎城主山崎片家、勢多城主山岡影隆、大洲城主池田弥三郎らには城固めを命じ、五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)には外敵を一兵も入れざるよう備えていた。これは明らかに勝家を仮想敵としての固めであることは明白である。
これに対し勝家も伊勢長島の城主滝川一益や、岐阜県の神戸信孝と連携をとり秀吉に備えてはいたが、秀吉に比べればあまりにも甘い備えであった。こうした緊迫した事態の中で、北陸は冬に入らんとしていた。
このまま冬に入れば勝家の主力は日本海側の雪の中に閉ざされて動くことができない。勝家は敵として秀吉を意識しつつもこの場合策は二つよりなかった。北陸に雪の来ないうちに撃って出るか、秀吉と和を結ぶかのいずれかを選ばねばならなかった。もし勝家が秀吉の陰謀を見抜くことができておれば、勝家は前者を選んだであろうけれども武骨一辺の正直者の勝家は、相手が攻めてもこないのに、理由もなく兵を出すことはできなかった。信孝の勧めもあり、秀吉と和を結ぶことができるなら、このまま北陸の豪雪を凌ごう。春になればまた春の風が吹くであろうと考えていた。
柴田勝家V.S.
羽柴秀吉
お市の方
勝家と秀吉は恋敵?
秀吉はまだ足軽時代から信長の妹、お市の方に思いを寄せていた。もちろん身分をわきまえぬ不遜なことであるが、次第に出世し一軍の将となり、特に浅井長政を滅ぼした時、お市の方と3人の娘を引き取ったことから、夢とはいえぬ現実が生れてきた。
お市の方にとっては、実力者になったとはいえ、素性も明らかでない成り上がり者の秀吉の側室になるなど、出来ることではなかったし、秀吉を非常に嫌っていた。そのため織田家に最も忠実な柴田勝家に保護を求めた。(当時36歳)
勝家にとっても、お市の方はあこがれの人であった。この申出を二つ返事で受け入れ、勝家はお市の方と3人の娘を連れて、北ノ庄城(福井市)に帰っていった。(当時57歳)
この結果に秀吉は激怒した。秀吉は勝家から小者時代から相当つらい仕打ちを受けてきたし、出世した後でも「猿」呼ばわりを止めなかった。それが恋敵になってしまったのだから、もはや二人の決戦は避けがたかった。
(板津安彦著、「柴田勝家と前田利家」 日本医事新報 平成14年7月6日号より) 勝家から和議の使者として、前田又左衛門利家、不破彦三勝三、金森五郎長近の三人が選ばれた。三人は10月29日のみぞれ降る栃木峠・椿井峠(椿坂峠)の両峠を越え長浜城にたどり着いた。ここで城主柴田勝豊の歓待を受けて一泊した。翌朝は船で長浜を発った。勝豊はこの頃すでに病気で床に伏せていることが多かったのであるが、病をおして、山崎まで同行したとの説もある。大津につくとここより一行は騎馬で、山崎天王山の宝寺城に着いた。到着した一行の度肝を抜いたのは、いつの間に築いたのか、築城の壮大さであった。いったい誰に備えての大工事であろうか。秀吉の底知れぬ力を見せつけられたのであった。
秀吉は木の香も新しい城内に一行を迎え入れると、下にも置かない持て成しであった。勝家からの書状を渡し、使者としての意を伝えると秀吉も、
ごもっとものお説、ご幼少のご曹司を助け、主君の遺業をおし進めねばならない今、配下の者が争い居る時ではありますまい。柴田殿がそのお気持ちなら、その方とて異議あるわけはござらぬ。御意に従いますと申し上げてくだされ
と屈託もなく、今までのことを根に持つ様子など、どこにも見受けられなかった。
秀吉も肩の荷が下りたような心地が致した。遠路ご苦労願ったお三方のご厚意は深く心にとどめおきたい
と笑った。金山長近は使者の最長老なので、
ついては秀吉殿のお墨付きをいただく訳には参りますまいか。勝家殿もご安心なさいましょう
というと、秀吉はちょっと考えて、
いやわしもそのように思っていたが、お互いに誓紙を交わすならば、勝家殿と二人の間のみでいかがかと存じられるので互に配下諸公の連判の方がよいかと思う。誓紙は後で調えて交わすよう申してくだされ
とて、誓紙を書こうとはしなかった。
この和議は栃木峠や椿坂峠の雪を想定しての狐と狸のだまし合いであったかもしれないが、はたと手を打って喜んだのは秀吉であった。秀吉は今まで勝家が、どのような戦略で攻めてくるか不安であった。そのため、宝寺城など勝家の攻撃を想定し工を急いでいた。ところがこれで雪解けまでは攻めてこないことが明らかになったのである。秀吉は、もう頭の中で雪解けまでの作戦を描いていた。
常に敵の裏をかき勝利を得ている秀吉の作戦方法を深く考えようともせず、使者を使って自分の手のうちをわざわざ見せにくる勝家の真正直さがもどかしくなる。
もう一つ不可解なのが、このとき使者となった、前田利家ら三人の行動である。賤ヶ岳合戦に三人は揃って、勝家配下に入り、北軍として砦を構築し南軍に備えていたが、戦いたけなわならんとした時、三人が示し合わせたように勝家を裏切り、戦線から離脱して帰城し、勝家軍滅亡の因を作った。戦後三人は秀吉より恩賞をうけているので宝寺城で既に両者の間に密約があったのではなかろうかとの流説もある。
前田利家勝家は利家に参戦を促した。この時ほど利家が苦渋の選択を迫られたことはなかったであろう。利家は勝家を「おやじ様」と呼んで敬い、かつ親しんできた。その上、北陸方面軍の一員として長い間共に戦ってきたのである。味方をして当然である。
かたやその敵である秀吉は利家の親友であり、四女豪は養女として秀吉の手元にいるのである。苦悩の末、ついに利家は三女まあを人質として勝家に差し出して、勝家軍に参陣した。
(参考 同上)
続く
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