秀吉方の軍勢は、先ず東野山には勇将の誇り高い佐和山城主堀秀政に、余呉湖北側の堂木山には山路将監正国と木下半右衛門を、その上の神明山には大鐘藤八郎と木村小隼人を更にその上に蜂須賀家政(小六の子)が陣を築いた。山路正国、木下半右衛門、大鐘藤八郎は、秀吉が滝川攻の前に天神山に砦を築かせたが、行市山の真下に当り、敵陣深く入り込んでいるので危険を感じ、堂木まで一戦退き新たに砦を構築させたのである。しかし、山路、木下、大鐘、共に柴田勝豊の部下であり、降伏したとはいえ、秀吉にとって決して油断できない相手である。それでこれら三将の監視も兼ねて秀吉直属の部下木村小隼人や蜂須賀家政をその迎えとして置いたのであった。そして東野山下から道を挟み堂木山まで濠を掘り柵を作って、いわゆる連珠の砦を築き行き来できるようにした。その後方中之郷には、これも勝豊の部下の小川祐忠に陣を作らせた。以上が秀吉の第一線の陣地で、降伏した勝豊の部下は全て第一線に配置された。第二線は賤ヶ岳に丹羽秀長の部下の桑山重晴と羽柴秀長の臣羽田正親が、大岩山には中川清秀が岩崎山には高山右近が配置され陣地の構築を急いだ。更に本陣として田上山に羽柴秀長が2万の兵をもって築城に当り、木之本には秀吉が陣を布いた。そして両軍とも長期戦の構えをとった。
これら両軍の兵力を領地より割り出すと、先ず北軍柴田方の兵力は、
越前兵として、柴田勝家(北の庄城主57歳,、[注]62歳ともいわれる) 50万石、前田利長(府中城主) 3万石、不破勝光(府中城に同居) 2万石、金森長近(大野城主60歳) 3万石、原彦次郎(大野城に同居) 2万石、柴田勝政(勝山城主) 2万石、安井家清(足羽郡東郷城主) 1万石、武藤助十郎(敦賀城主) 5万石
加賀兵として、佐久間盛政(尾山(金沢)城主30歳) 29万石、徳山則秀(松任城主40歳) 4万石、村上長頼(前田利家の家臣) 7万石、拝郷五左衛門(大聖寺城主) 4万石
能登兵として、前田利家(七尾城主46歳) 19万石、長連竜(利家与力) 3万石
越中兵として、佐々成政(富山城主45歳) 36万石、神保氏春(成政与力) 7万石、菊池武勝(阿尾城主) 1万石
所領合計178万石となる。1万石の領地から徴収可能の兵力は250人と言われているので、上記所領が集めえる兵力は4万4千5百人となる。更にこれに協力可能の兵力は、神戸信孝(岐阜城主26歳) 美濃の大部分と伊勢中部の58万石、滝川一益(桑名城主) 伊勢北部と尾張の一部 15万石
計73万石で、兵力1万8千余となる。
しかし賤ヶ岳合戦では佐々成政の兵力が、上杉景勝の抑えとして残り参加していないので、柴田方兵力は全部合わせて4万人前後と見るのが妥当と思われる。これに対する南軍羽柴方の兵力は、
羽柴秀吉(姫路城主47歳) 53万石、羽柴秀勝(丹波亀山城主18歳) 29万石、羽柴秀長(但馬出石城主43歳) 12万石、池田信輝(大阪城主48歳) 23万石、丹羽長秀(近江坂本大溝城主49歳) 53万石、このなかに日野城主蒲生氏郷(28歳)12万石を含む。筒井順慶(大和郡山城主35歳) 44万石、宮部継潤(因幡鳥取城主) 13万石、細川藤孝(丹後田辺城主50歳) 12万石、この中には藤孝の子宮津城主忠興(20歳) 4万石を含む。中川清秀(摂津茨木城主42歳) 5万石、高山重友(摂津高槻城主) 2万石、仙台秀久(淡路洲本城主) 6万石、森長可(美濃金山城主) 9万石、堀秀政(佐和山城主31歳) 53万石、この中には近江肥田城主蜂屋頼隆や長浜城主柴田勝豊(6万石)も含んでいる。
所領267万石であるから徴兵能力は6万6千人となる。他に協力可能の兵力は、北畠信雄(清洲城主26歳) 尾張と伊勢南部 85万石、宇喜多秀家(岡山城主) 備前、美作、備中二郡、61万石
所領計146万石で、兵力3万6千5百人となる。
しかし秀吉は毛利の抑えとして宇喜多秀家、宮部継潤を、土佐の長曾我部、紀伊の畠山貞政や根来、雑賀の土寇を抑えるため池田信輝、筒井順慶、仙石秀久を残しているので、秀吉が賤ヶ岳戦に参加させた兵力は6万余であったの見るが妥当であろう。
いよいよ両軍が長期戦の構えに入ると、湖北における両軍の警備は益々厳重となり猫の子一匹も安全に通り抜けることは出来なくなった。勝家は主な砦の外に要所には更に見張りの砦を置いた。特に丹生方面よりの側面攻撃に備え、小谷付近に竹か鼻砦、柳ヶ瀬付近には打谷砦、雁ヶ谷の雁ヶ谷口砦、椿坂に椿井砦、また塩津街道には城の坂砦、城山砦、城が谷砦、集福寺口砦など45人の見張りを置いた監視砦がいたる所に設けられ、塩津街道や、中之郷以北の北国街道は完全に勝家によって固められていた。秀吉もまた広範囲の警備を行い丹羽秀長7千余騎を海津において愛発方面よりの敵に備えるとともに付近の舟を徴発して海津から長浜にかけての湖岸を監視し、丹羽長秀の子丹羽鍋丸(長重)3千騎を敦賀付近まで出し、この方面の監視に当てた。細川忠興は丹後に帰し、丹後の水軍を越前沿岸に廻し港湾に火を放ち北軍の後方かく乱を図るなどの挙に出た。そればかりでなく、かつては信長に反旗を翻し浅井攻めに幾度となく秀吉と戦った一向宗徒も味方に入れ、特に秀吉の一族を長浜城から助け出した浅井郡浅井町尊勝寺の称名寺はこの賤ヶ岳の戦いでは手足となって秀吉のために働いている。称名寺は多くの宗徒を使い、余呉の奥深く侵入して、間諜や連絡などいろいろな働きをしている。前年の暮頃より、峠の雪の状況や交通の難易などの刻々に報告していたようである。秀吉の知行雑務を掌利、後豊臣家五奉行の一になった益田長盛の書状に、
被仰越候通、具申上候。雪深く候て、通路一切無之候由、其分にて御座候へく候 彼飛脚かへり候て、相替候事候はば、可被仰上候。此表一篇に被仰付御存分のごとく罷成候。可御心安候。近日御帰陣たるべく候間、其刻万々可申述候。恐々謹言。
12月20日(天正10年) 増仁右(益田仁右衛門)長政(花押)
称名寺 御返報また石田三成の書状には
柳瀬に被付置候もの罷帰候とて、御状御使者口上趣、具申上候処、一段御満足之儀候。重而も彼地、人を被付置切々被仰上尤存候。尚追々可申承候、恐々謹言。
尚以筑州より御直札にて被仰候之間、為我等不直札候、己上
3月13日(天正11年) 石田佐吉 三成(花押)
称名寺 貴報これによると間諜を密かに柳ヶ瀬に入りこませ、刻々に柴田勝家方の情報を探り、刻々秀吉方に報告していたようで、この情報には秀吉も大変満足していたようである。秀吉からの指示も配下を通じてではなく直札(親展書)にて伝えられていたようである。
また秀吉が出した下知状には
致敵陣取急度出馬おしつむべく候。定北国者はいくんたるべく候。然時は、余呉、丹生其外在在所所の山々に、かくれいる土民百姓以下、ことごとくまかりいで、後をしたい、ちゅうせつをはげまし、くびをとるともからにをきては、あるひは知行をつかはし、あるひはたうざのいん物を可出、もしのぞみの儀あらば、しょやくめんじょすべく候。此むね相心得、申しふれらるべき者也。仍如件
天正11年3月15日 筑前守 秀吉(花押)
称名寺秀吉の書状はかなが多く、読みづらいが、もう一度書き改めると、
敵が陣を取るに至ったので、きっと兵を出して、おしつめる考えである。定めて北国者は敗軍となるべし。その時は、余呉、丹生そのほか、あちこちの山々に隠れている土地の者は、百姓以下ことごとくはせ参じ、後を追い、忠節を励み、首を取った輩においては、あるいは知行(土地または禄)を与え、あるいは当座の音者(進物、贈り物)を出すべし。もし望みとあらば諸役免除とすべし、此の旨相心得て、申しふれらるべきもの也、よって件の如し。
これら称名寺の文書によると、称名寺は浅井氏滅亡の時に受けた荒廃から完全に立ち上がり、多くの配下の人々を駆使して、あるときは間諜として忍びの役を、ある時は戦場下への布令の役を引き受け秀吉のために尽くしていたのである。
秀吉は更に戦場付近に商人を入れ、長期戦に備えて西浅井から遠く敦賀方面まで米、麦、豆等の食糧を買い入れ、各々の砦に貯えさせた。こうした食料の運搬にも、黙々と働いてくれた一向宗徒がある。西浅井町月出に称福寺という寺院がある。この寺の十世香栄和尚は、父君長崎和尚と共に、里人を引き連れ、これら糧米の運送に協力していた。敦賀方面から運ばれてくる糧食や塩などを、舟運を使い海津から飯ノ浦や、山梨、塩津等に陸揚げし、ここから急坂を賤ヶ岳や神明山に運ばせたのであった。当時は賤ヶ岳トンネルもなかったので、飯ノ浦や山梨から木之本に運び入れるには、大音坂を越えねばならず、大変な苦労であった。しかし長崎、香栄両和尚は里人の先頭に立ち、この困難な仕事をなし遂げ秀吉から大いに感謝された。これら寺院をはじめ湖北で秀吉方に協力した人達は賤ヶ岳合戦後、いろいろの恩賞にあずかっていたことは言うまでもない。
称福寺には「まめ20石、ささげ20石也、合40石両人にくだされ候・・・。」と書かれた秀吉の感状やその他賤ヶ岳合戦に使用されたものが秀吉から与えられ所蔵されている。
秀吉はまた、多くの兵を、木之本、中之郷等の民家の中にも駐屯させたので、住民とのトラブルを恐れ禁制を出している。
禁制 江州北郡 木之本郷 同小屋
一、 当手軍勢 甲乙人乱妨狼藉の事
一、 放火の事
一、 対地下人 不謂族申懸事
右条々堅令停止畢。若違犯之輩在之者、速可処罪科。仍下知如件
天正11年3月 日 筑前守(花押)つまり当軍勢の者で誰彼を問わず人に乱妨狼藉をしたり、放火したり、土地の人に対し謂のない言いがかりをかける事は堅く禁止する。もし違反する者があれば、速に罪科に処するというもので、戦場での治安の維持に努めたことは、今も昔も変わりない。
秀吉は清洲会議以来、勝家とは遅かれ早かれ一戦を交え雌雄を決せなければならないであろうことは予測していたので、常にそのことが脳裏から離れられなかった。また決戦場も必ず湖北伊香郡の江越国境の隘路と決めここで打ち損じ湖北平原に出すことがあれば、岐阜や伊勢への連絡も容易となり、苦戦となるは必死と考えていた。よって会議以来、長浜城を勝家に渡してよりは、先ず越前、長浜の連絡の切断を考えていた。先ず隘路に当る木ノ本町黒田村に対し、天正10年の8月16日、木下小一郎長秀の名で、黒田之郷惣百姓中へふれを出しているこれは、柴田勝豊が長浜城に入って間もなくである。
黒田の百姓衆、何れも還往を令する上は、乱妨狼藉の儀、有まじく候、若し違乱之やからこれあらば急ぎ注進申越べく候、謹言とあり
もうこの時に弟の小一郎に命じ、黒田の百姓に還往安堵を命じ、将来賤ヶ岳の築城の準備をしている。
更に秀吉は安土の三法師丸館の諸工事資材として椿井、栃木両峠の木材の伐採を願い出ているが、これについても、人の好い勝家は何の疑いもなく承知している。秀吉はやはり、黒田村の百姓を借り出し、両峠にうっそうと生い茂る、トチやケヤキの巨木を道路上に切り倒し、道路を塞ぐのが目的でこのままにして帰り、以後は誰がふれ出しても絶対に人夫を出してはならないと命じている。
急度申付おき候 向後は両人はふれを申さず候幅、人夫誰がふれにまかり越候とも出るべからず。そのための書状かくの如く候 浅野弥兵衛 長吉(浅野長政)
天正10年霜月28日 蒔田平左衛門尉 久勝(花押)
黒田百姓中浅野長政は秀吉の奉行で、この頃は近江坂本城主となっており、伊香郡内でも120石の領地を持っていた。たぶんこれが黒田付近でなかなったのかと思われる。蒔田久勝は秀吉側近の武将で、秀吉の馬廻りを勤めていた。
こうして秀吉は峠の道を塞いだが、峠に雪が降り、勝家より和議の申出があり、峠が通行できなくなると、黒田の人夫を使い、これら木材を引出し、これを賤ヶ岳、大岩山、岩崎山三砦の資材に使用している。
当郷夫丸之事 家数90間(軒)之45人免許仕候 残の45人明日小原まで出ずべく候 若無沙汰においては成敗仕るべく候也
2月20日(天正11年) 小一郎 長秀(花押)
くろだ村 名主 百姓中黒田以外の字の人達も夫役として多く駆り立てられたのであろと思われるが証明される文書が残っていないので、断言することは出来ない。
このように十分の準備が調うと秀吉は3月27日長浜城に帰り、4月下旬まで一歩も外に出ず伊勢の滝川、岐阜の信孝、湖北の勝家の動きをじっと監視し、どの方面にもすぐに兵を動かせるよう、三方睨みの構えで、あたかも飼を待つ蜘蛛のように待っていた。
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