3.戦機熟す

せんきじゅくす

 両者対立のまま、既に1ヶ月近くを過ぎた。こんな時は下手に動き出した方に必ず透きができ敗れるのが常道である。この緊張を破って動き出したのは、やはり岐阜の信孝であった。

 一度信雄秀吉にたたかれ、母や妹を人質に出して降伏した信孝は、柴田勝家が湖北に進出して堅固な陣地を築いたと聞くと、もう我慢ができなかった。両者から攻め挟み撃ちにすれば簡単に秀吉を倒すことができるとでも思ったのであろうか。あるいは勝家と対陣している現状では、秀吉はとても岐阜へは手は出せまいと思ったのであろうか。美濃清水城主で、前の秀吉の信孝攻めの時に、信孝に叛き秀吉に寝返った稲葉一鉄、同じく大垣城氏家行広の領地に火を放った。

 秀吉は第一回目の攻撃には主君信長公の三男という手前もあり、いささか遠慮もあったが、今度は違う、責は降伏の条約を破った信孝にある。大義名分のもとに声を大にして、信孝の非を鳴らして責めることができる。余呉の方面が膠着状態にあるうちに、一挙に岐阜城を叩き潰さんと、4月17日2万の兵を率いて、岐阜に向かって出発した。出発に先立ち、安土に置いてあった信孝の人質、信孝の生母坂夫人と妹それに家臣岡本良勝、幸田彦右衛門尉両人の母親の4人の女たちを後手に縛り上げ、次々と斬り捨てたのであった。


岐阜城


大垣城

 しかし此の頃、余呉の両陣営の中にも密かに戦機は動き出していた。堂木の砦を守備していた山路将監正国長浜城主柴田勝豊の配下にあった。秀吉が勝豊を降伏させる時は、秀吉に味方して、勝豊に降伏を説得した一人であったが、いよいよ勝家と対陣の時は第一線におかれ更に隣の神明山の砦には木村定重(小隼人)が監視の目を光らせているのを見ると、秀吉陣営の中では信頼のおかれていないのが不満であった。この頃勝豊の配下には、長浜城を乗っ取り勝家に渡したものには金子百枚知行7千石を与えるという覚書が配布されるなどの事もあり、堂木、神明の砦の間では、お互いの間に疑心暗鬼の空気が流れて、堂木、神明の砦を守る武将はほとんど降伏した長浜城主柴田勝豊の配下の者で、秀吉も多少の疑いがあったのか直臣の木村小隼人を監視をかねてつけてあった。木村小隼人も、まさかとは思っても、敵中にいるようで居心地はよくなかった。それで自分は本丸の中に入り、大金藤八郎、木下半右衛、山路正国らは外郭の砦に置かれていた。この間隙を縫うて勝家は、山路正国と親交をもっている宇野忠左衛門を密使として誘いをかけさせた。誘いの条件は「丸山城12万石」を与えるというものである。丸岡城は主君柴田勝豊の城で、長くこの城下に暮らしていたので、名を聞いただけでも懐かしい。目をつむれば城内の様子、城下の様子がありありと浮かんでくるのであった。自分があの城の主となれるのだと思うと、どうして心動かさずに居られようか。心よく柴田方の内通を約した。


勝家が作らせた軍用道(別所山)


賤ヶ岳から余呉湖を望む
遠くに見えるのが神明山、堂木山

 山路正国は最初神明山の方に木村小隼人と同陣していたが、内通の噂が出たので堂木の木下半右衛と同陣するよう陣地替えをさせられたのであるから、もう少し慎重に行動すべきであった。それに十分の警戒もなく自分の部下は全て自分に忠実であると思い疑わなかった。そして急ぎ勝家との約束を決行しようと考えたが、邪魔になるのが木村小隼人である。謀略をもって木村小隼人さえ討てば、他はみな勝豊の部下で我が同志であると考え、木村小隼人を除くべくその日を待っていた。ところが信孝が働きかけ、秀吉が岐阜へ出動の準備をしているとの知らせが入ると、好期来たれと日頃の計画を実行することにした。4月13日夜、山路正国の使者が木村小隼人の本丸にやってきた。

 だい分永陣が続き居り、明朝堂木の陣に於いて、神明、堂木の両陣の頭立ちたる者、茶を飲みながら、今後の戦略につき打ち合わせしたいと存ずるが如何にござりましょう。

木村小隼人も疑う様子もなく、

 いやわしもこのところ些かだれ気味じゃ、それもよかろう。

と承諾したので、明日は必ず小隼人を討ち取る手筈を一部側近の者と決めていた。その夜半、木村小隼人の本丸の木戸をこつこつと叩く者がある。番の者が、「何者にござる」と出て見ると、軽装の一武士がひざまづいている。
「本陣よりの使者、急ぎ小隼人殿に伝える事あって参りました。急ぎお取次ぎを願う。」
という。やがて小隼人からの許しが出たので、両側を番兵に守られ、木村小隼人の前に出ると、それは本陣からの使者ではなかった。小隼人もどこか見覚えのある顔なので、
「そなたは木村正国殿の・・・・」と言いかけると
「左様、山路の内の者野村勝次郎にござります。明朝に迫る一大事ぜひお耳に入れたき儀がござりまして・・・・」
山路正国の内通について話すと、小隼人もまさかと思いつつも正国の内通の噂は早くからあり、秀吉からも、「寝首をかかれないように用心せよ」と言われていたので、
「やはりそうであったか」
と、早速秀吉の指示を受け正国を斬らんと使者を長浜に使わせた。そして野村勝次郎に、
「そなたは今更正国の元に帰ることはできないであろう」
と城内に於いた。

小隼人正国を油断させるため、早朝

「実は昨夜半より癪気(しゃくけ)が出て腹痛のため本日は参ることがかなわないので悪しからず」と使を以って丁寧に断らせた。

 しかし正国はそれを聞いて咄嗟に謀の露見を感じた。誰かが密告した者があるに違いないと思い、直ちに門を閉ざし人員を点呼させ、居ない者がないか調べさせた。すると野村勝次郎が昨夜半から床を抜け出し居ないという。もはや露見は疑うべきもなかった。こうなると一刻の猶予も許されない。甥と二人の家臣を長浜に使わし、長浜に残した老母と妻子7人の者を救い出す手筈を取ると、自分はよろいをつけ長柄の槍を小脇に「我に続かんと思う者はついてこい」と言い残すなり、城を飛び出し、行市山佐久間盛政の陣に走った。正国に従った者は数名に過ぎなかった。

 正国が、これだけは是非助けてやりたいと思った老母や妻子7人は城を抜け出し舟で逃れんとしたが、小隼人が出した使者の知らせで、番兵に全員捕らえられ、木村小隼人のもとに送られてきた。小隼人の前に引き出された女や何も知らない子供たちを見ると、憎い正国の家族と思いながらも不憫に思われた。

 「故あって、おこと達の命をもらわねばならぬことになった」と小隼人が言うと、もう正国のことは聞いているのであろう。老母も夫人も、「覚悟はできております」と恐れる様子もなく頭を下げた。
 「将監殿にいいおくことはござらぬか」という小隼人の言葉に「この期に及び何も申すことはござりませんが、若し機会がありましたら、将監殿の御武運長久を草葉の陰からお祈りしていますとお伝えいただければ仕合せに存じます」と言って静かに頭を下げた。秀吉からは正国の人質どもを逆さはりつけにせよ、との命が来た。木村小隼人は雑兵に命じ、7人の女、子供を柱に逆さに縛りつけ、老母より順に下から突き殺していった。

 戦国の世は、武家一門に生れ、嫁いだというだけで、何の罪もない女、子供までが、どれだけ多く地獄絵の如く殺されていったか知れないのである。 

 これだけの犠牲を払って生き延びた正国にどんな報いがあったのであろうか。
 正国は行市山佐久間盛政の陣にたどり着くと「事前に露見するとは、将監殿にも似合わない油断でござったのう」と言われながらも、武将としての威厳を崩そうとはせなかった。

 小隼人を討ち取ることには失敗したが、山路正国の話は無聊の佐久間盛政の血を沸かすには十分であった。それは、秀吉は今長浜から岐阜に兵を進めており、木之本には本隊はいないこと、神明、堂木の砦は堅固で攻めるには困難である。その上木村小隼人は、内通の噂以来、予備隊として木之本方面にいた。蜂須賀家政神明砦に入れ警備を厳重にしているので攻撃は不利である。それに比し、賤ヶ岳、大岩山、岩崎山の砦は未だ土塁も固まらず、兵達も油断しているので攻め易い。大岩山の砦を落とせば、賤ヶ岳、岩崎山は連絡を絶たれ孤立し、たやすく陥落するであろうと、さすがは柴田勝豊を助けて、丸岡城を支えてきただけに優れた識見を持っている。

 これを聞いた盛政は、すぐに勝家の本陣に駆けつけた。そして山路正国の一件を報告し、直ちに大岩山攻撃の許しを願い出た。しかし勝家の腰は重かった。敵の陣中深く攻め入ることは勝家の長い戦歴から見て最も危険な戦法であった。これは敵の包囲に落ちることは必至で、後方によほど信頼できる支援部隊が控えている時にのみ功を奏することができるものである。また秀吉の本隊が今日木之本にいなくとも、常識では考えられない神速で引き返してくることは、本能寺の変の時に飲まされた煮げ湯が、今も忘れることができないしこりとなって脳裏に残っている。ようやく永陣の構えができた時軽率な動きは慎まなければならないというのが勝家の意見であった。

 「伯父上のお案じなさることはごもっともなれど、盛政とて三十の分別盛り、いささか戦法も弁えておりますればどうかご安じ無く盛政におまかせください」

と、あくまで食い下がってくる盛政の熱血には勝家も遂に負けて、条件付でこれを許すことになった。その条件というのは、第一に後詰を十分にして、敵に退路を絶たれることなきようにすること、大岩山を落とし入れたら必ず、元の陣に退きさがることの二つの条件であった。盛政もそれに異存なく、直ちに主な武将たちが勝家の本陣に召しだされた。勝家より山路正国の伝えたことについて一応詳しく説明があり、続いて地図が広げられると、大岩山の攻撃について指示があり、

「これはあくまで大岩山攻略についてのみのことであれば、大岩山陥落後は直ちにそれぞれの陣地に退かれたい」

 盛政も最初から賤ヶ岳にとどまる気はなく、勝家の命に従い退くつもりでいたようである。大岩山攻撃の本隊は佐久間盛政を総大将として、此の下に徳山則秀、原彦次郎、不破勝光、拝郷五左衛門ら8千の兵がこれに従った。

 後詰として、東野山の堀秀政中之郷方面の敵の抑えとして、勝家自身が7千の兵をもって今市の狐塚まで進出して、神明、堂木山の敵の抑えとしては前田利家、利長父子が2千の兵をもって、神明山と権現峠の間にある茂山に陣をおく、更に賤ヶ岳の敵の抑えとして柴田勝政が3千の兵をもって賤ヶ岳西の対山、飯ノ浦切通しの上に陣を取ることにした。


 4月20日の午前1時を待って一斉に行動が開始された。東野までの北国街道ならびに塩津街道は、北軍柴田勝家の陣地範囲で、ここの通過は比較的楽であるが、神明山から、国安天神山当りまでは秀吉の陣地範囲に入り敵の監視も厳で大部隊を通すことは不可能である。池原から集福寺越の道が開けており、集福寺には昔天台宗の集福寺という大きい寺院があった所で、余呉の方からこの道を通る人も多く早くから生活道として開けていた。また塩津路の祝山から川並へは、これも権現越とも言われ、峠上には蔵王権現堂があり、木之本方面から塩津に出るには、すべてこの道が利用されていたので早くから開けていた。盛政の率いる大部隊が行市山の砦を出て、ここから別所山に出、ここで徳山、原、不破、拝郷などの部隊と合流して、集福寺峠に出、一気にここを駆け下り、権現坂を越えて、余呉湖畔に道をとったであろうことは当然とうなずける。これに対し、前田父子は敵に最も近いコースを取っているので、集福寺峠よりは、小部隊に別れ、敵の監視を避けて、盛政が権現に登るまでに茂山に到着し、盛政の大部隊を安全に余呉湖畔に降ろしている。これらの行動はすべて夜の明けぬうちに、暗の中で行われたので、全員が余呉湖畔に出るまでは大変な苦労があったのであろう。勝政の兵がどのようにして切り通しの上に出たか明らかでないが、この間は敵の第一線と第二線の真空地帯なので、比較的楽にたどりついたものと思われる。

 盛政の部隊が余呉湖畔に出た頃は東の空もようやく白み、人影も見分けられるようになっていた。先鋒は不破勝光、徳山則秀、拝郷五左衛門、安井家清、保田安政、原房親らがいた。盛政は本隊を率い後方に続いていた。尾野呂浜のあたりまでくると敵の目前である。昨夜の監視を勤めていたのであろうか、敵兵7,8名が馬を洗っていた。不破の兵4,5人が駆け寄ると不意をつかれて驚き立ち上がった所を二人まで槍で突き殺した。他の者は薄暗の中を逃げ散ってしまった。けれども二人を血祭りに挙げると一同幸先よしと躍り上がって喜んだ。殺されたのは中川清秀配下の菅杢太夫、太田平八、池田仙右衛門の馬の口取りの者であった。


佐久間盛政が大岩山の中川清秀を攻撃

 尾野呂から逃げ帰った者の中進で、油断していた中川清秀の砦は大混乱をした。然し鉄砲隊は火薬をつめるだけの余裕はあった。土塁に一列にならび討ち出した玉は、いさみ足の不破の先頭をばたばたと倒していったが、後続の兵はもう土塁に達していた。未だ固まらぬ土壁を通して突き出す素槍は壁の向う側に玉を込めている鉄砲隊の腹を次々と突き刺した。たまりかねた清秀は、急使を賤ヶ岳の桑山重晴岩崎山の高山右近に出し救援を求めたが、いずれからも救援は来なかった。その筈である。賤ヶ岳砦の桑山重晴も、岩崎山砦の高山右近も戦う意志は毛頭なかった。高山右近重友瀬田城山岡美作守影隆と共に柴田勝家と通じており、いつでも柴田方に寝返りできる準備をしていた。

 山岡一族は甲賀郡大原荘毛牧村(甲賀村)に住んでいた甲賀武士であった。六角氏に仕えていた頃勢多氏に替り勢多城主になった。永禄11年信長が観音寺城を攻めた時、信長に降り、勢多城を安堵された。その後は、長男景宗、弟景猶と共に各地に転戦し、天正3年7月に信長の命で瀬田川に架橋したが、本能寺の変の時明智光秀の誘いをけり、使者を殺し瀬田の橋に火をかけ甲賀山中に逃れたことは前に述べたとおりである。天正10年7月光秀滅亡後は信孝に従っていた。その後信雄に仕え、天正11年正月には秀吉に仕えて北伊勢の攻撃に参戦したが、滝川軍の目覚しい働きと、柴田軍の攻勢を思い、羽柴秀吉の力に疑問を持ち、高山右近に相談したところ、高山右近も同じ考えを持っていることがわかり、二人で柴田方に内通し、柴田勝家との話し合いが十分まとまらないうちに大岩山の攻撃が始まったので、互に時期を失ってしまった。そのようなわけで高山右近は自分が攻められない限り、自分からは攻めて出る意志はなかった。しかし山岡景隆は柴田軍との内通が発覚し勢多城を追われ生地毛牧村に隠れ住み、天正13年正月61歳の生涯を終わったという。

 景隆の弟に景友があったが、のち剃髪して法名を道阿弥と称し、徳川家康に仕え、近江で9千石を給され、江戸幕府の忍者甲賀組の棟梁となって活躍した。

 戦う意志のない高山重友右近は、大岩山の中川清秀の苦戦を横目に、兵をまとめ木之本田上山山麓まで退き、田上山砦の羽柴小一郎に使を出し、

 「敵は多勢にて、岩崎山の籠城難く、ここまで退き申したが、次の戦いに備えたく、城内一隅にでも屯所お与えいただければ幸いに存じます」

と伝えると、秀長はあまりの事に呆気にとられ聞いていたが、秀長は兄秀吉と違って、思いやりの多い人であったので、別に咎めもせず、
 「共に籠城、別に異存はござらぬ」
とて、重友を城内に入れてやった。これを聞いた秀吉は非常な立腹で、秀吉なら打首か追放を命じたことであろう。高山重友山岡景隆のように秀吉の部下であったら、無論山岡と同じ罪になったであろうが、高山重友でも中川清秀でも、秀吉と同格の信長配下の武将で、賤ヶ岳合戦には秀吉の協力者の立場で参戦しているに過ぎないので、山路正国のように明らかに敵陣に走れば別であるが、裏切った証拠もない以上、叱責以上のことはできなかった。それだけに弟小一郎秀長に対しては八つ当たりに当り散らし、
 「お前は弟とはいえ、わしとは素性も違う別物だ」
とまで言って罵ったといわれている。しかし以来高山は各所の戦いに出て忠勤を励んだが、報われることが少なかった。この件は高山重友の醜態として汚名を残した。 

 一方賤ヶ岳桑山重晴は、はじめ海津に陣する丹羽長秀の与力(助勢)をしていたが賤ヶ岳合戦では、羽柴秀長の配下にあった。桑山重晴も戦意はなかった。


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