4.秀吉、滝川一益を攻める

ひでよし、たきがわかずますをせめる

 伊勢の亀山城主であった関盛信は、鈴鹿郡の峰の城の城主岡本重政と共に岐阜城神戸信孝に仕えていたが、一面秀吉とも通じていたので、勝家からも秀吉からも注目されていた。信孝が岐阜城で秀吉に敗れたのを聞くと大いに動揺し関盛信は一子一政をつれて密かに姫路城を訪ねた。姫路城で正月を迎えている秀吉に年賀を述べ、今後の策を仰いだ。ところが城主盛信の不在中に家中の岩間三太夫が亀山城を乗っ取り、滝川一益に助けを求めた。一益は早速兵を出し峰の城主岡本重政を追い出し、付近の城を落とし鈴鹿口を固めた。

 それこそ秀吉にとって天から降って湧いたような幸運だった。勝家の動けないうちに、どうしても滝川一益だけは滅ぼしておきたかったのであるが、滝川を攻める大義名分が何一つなかった。いかに乱世戦国の武将といえども理由もなく他を攻撃することはできなかった。それが冬に入ったばかりの正月、勝家がいつ動き出せるか見当もつかない天正11年の正月、一益の方から挑戦してきたのだから秀吉にはこんなありがたいことはない。


滝上一益


亀山城

 滝川一益ともあろう武将が、何故早まってこの時期に兵を挙げたのであろうか。これは明智光秀が勝算もないあの兵をなぜ挙げたのかと思われるのと共に後世の人にとってわからない疑問であった。

 秀吉は屠蘇の香もまだ覚めやらぬ正月5日姫路城を発った。9日は安土に立ち寄り三法師丸のご機嫌うかがいをすませた。安土には三法師付の蒲生氏郷が待っていた。姫路から秀吉についてきた関盛重、一政父子の外に山岡影隆、長谷川秀一、多賀秀家など近国衆も馳せ集まってきた。蒲生氏郷の妹は関一政の夫人である。

 秀吉の頭の中はコンピューターのように緻密に働いていた。滝川を攻める前に勝家への備えを怠ってはいなかった。勝家の本隊は動けなくても、小部隊が何時雪の中を無理をして押し出してこないとも知れない。石川兵助、堀田仁右衛門、木村弥右衛門信州海津の城主須田相模守の元に送った。相模守は満親といって、上杉景勝の家臣で、北国で活躍している人である。使者の用件は上杉景勝と盟約を結びたい。その上で影勝に勝家の後方をかく乱し、秀吉に協力してもらえるよう仲介の労をとって欲しいというものであった。更に余呉に入ると、天神山付近を調査し、天神山、茶臼山に砦の構築を長浜城主柴田勝豊の配下の山路正国、大金藤八郎に命じ、その監視役として丹羽長秀を置いた。

 佐和山城にあって勝家との決戦との時に備え手を打っているうちに日時を過ごし、伊勢に向かって佐和山城を発ったのが天正11年の2月7日であった。

 総勢7万5千を三手に分け三道から伊勢に攻め入った。

 左側(北側)の兵2万5千は秀吉の弟、羽柴小一郎秀長を主将に筒井順慶、伊藤祐時、稲葉一鉄、氏家行広がこれに続き、多賀町の五僧峠を越えた。この峠を越えると美濃国土岐、多良、一瀬を経て伊勢街頭に出る。関ヶ原合戦の時敗れた薩摩の島津義弘もこの峠を越えて近江に逃れ信楽を経て泉州堺港から鹿児島に逃げ帰ってより土地の人は島津越えとも呼んでいる。中央軍は三好孫七郎秀次を主将に中村一氏、堀尾吉晴ら2万が多賀の大君ヶ畑越えを進んだ。この峠は鞍掛峠越えともいわれ標高791mあるが、古くから伊勢街道と多賀大社参詣の参宮道として利用されていた。現在は国道306号線がこの峠を越えている。

 右翼兵は羽柴秀吉が総指揮をとり、羽柴秀勝、蒲生氏郷、細川忠興、森可成、蜂尾頼隆の合力衆に蜂須賀正勝、黒田官兵衛、浅野長勝、掘秀政、山内一豊の直系旗本合わせて3万は安土発し草津、水口を経て安楽峠標高490mを越えた。この峠を越えると亀山市の安楽町に出る。この道は鈴鹿の間道で京道ともいわれ通行人も多かった。現在この道は東海自然遊歩道が通りハイカーで賑わっている。

 秀吉は敵の防備の裏をかき特に山岳重畳の険路を選び強行軍を行った。これに対する滝川一益の軍はわずか6千人である。秀吉に裏をかかれた事を知った時は既に遅く、秀吉の兵は無人の野を行く如く進撃して、峰城に迫り、たちまち峰城は三好秀次らの兵が十重二十重に取り囲んでしまった。亀山城は山内一豊らが包囲した。亀山城主は佐治新助であった。新助は目覚しい戦いぶりで、到底城内にたどり着くことができず、多くの犠牲と時間をかけ数倍の兵力で遂に城内に入り落とし入れた。城主新助は捕らえられたが、殺すには惜しい人物と後のことを思い一益の所に帰してやった。

 一益は長嶋城が危うくなったので城内に一族である滝川源八滝川彦次郎をおき、自分は旗本の精兵を率い、桑名城に移った。秀吉は亀山城を落とすと、桑名には向かわず、鈴鹿口に兵を結集して、国府城、関城を落とし、未だ落ちない峰城に迫った。城主の滝川儀太夫は一益の甥で、叔父勝りといわれた勇将で、息もつかせぬ秀吉の猛攻にも、わずか1千2百の兵で立て篭もりびくともしなかった。48日目の月日を経るも城内にたどり着けず遂に地下にトンネルを掘ったがこれも失敗す。しかし秀吉得意の兵糧攻めには勝てず遂に降伏した。兵糧も弾薬も尽きてなお18日を持ちこたえたというこの間の秀吉の犠牲2万を越えたという。秀吉は儀太夫の勇戦ぶりに感じ何とか部下に引き入れんとしたが、叔父を裏切り身の安泰をはかる儀太夫ではないと突っぱねた。それならその方を許したら如何がいたすと尋ねられると、無論叔父の元に駆けつけ叔父一益と生死を共にする覚悟とのことに、秀吉も、しからば打首に致すぞといえば、御意のままに、とて少しも動じるところがない。さすがの秀吉も殺すには惜しいし、かといって放せば末恐ろしい敵となるは必定、思案の末、秀吉は商売の資金として2千貫を与え、そのいずれにもつかず一時武士を離れ、里に身を隠しおれ、そのうちに一益殿と仲直りができるだろうから、その時はわしの召に応じてくれと話して、縛りを解いたという。

 賤ヶ岳の合戦後、滝川一益は秀吉に降伏したが、一益降伏すると秀吉は約束どおり、儀太夫(滝川益重)を召しだし家臣として召抱えた。

 秀吉の頭の中には伊勢の滝川を攻めている間も柴田勝家のことが一瞬も離れなかった。天神山には砦は構築させたが、栃木、椿井の坂は雪が深くて越えられない。もしかしたら、雪の少ない海岸を敦賀に出て、山中を通る七里半越を越えて、西近江に出るかもしれないと思うと、じっとしてはおれなかった。丹羽長秀をすぐに海津に送り、この方面の警備に当たらせると共に、長秀の子丹羽長重(鍋丸)に3千の兵をつけ敦賀方面を監視させた。

 七里半越山中越えとも愛発(あらち)越とも言われ、古代には愛発の関のあった所である。この峠を押さえておかないと気が休まらなかった。更に付近の舟を徴収して、海津から長浜付近までの沿岸の監視をさせ、長浜城へ圧力をかけることも忘れなかった。


続く

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