3.秀吉動き出す

ひでよしうごきだす

 秀吉は勝家の腹がわかったので、宝寺城の固めは中止した。はじめ秀吉は勝家が西近江路から、信孝や滝川一益が東近江路から攻め上った時、京都が主戦場になるのではないかと思い宝寺城の防備を固めていたが、勝家が冬の間動かないとなると、作戦を一変する必要があった。

 しかし勝家も冬の間を漫然と過ごしていたのではなかった。安芸の毛利輝元、三河の徳川家康らの元に見舞の品々を送り款を通じんとしていた。この点は秀吉も抜かりなく、越後の上杉景勝本願寺徳川家康などに勝家と同じ工作を続けていた。しかし当時は秀吉・勝家の力が伯仲している以上どの武将も日和見的で、すべて中立の態度を取っていた。

 12月にも入ると雪は降り続き、峠の雪も1mは越えていた。秀吉は勝家の使者前田利家らと結んだ和議のことなどとっくに忘れ、勝家打倒に精魂を傾けていた。それに対し勝家は秀吉を完全に欺いたとは思っていなかったが、一旦結んだ約束であるから、少なくとも雪解けまでは動くことはあるまいと思っていた。ところが秀吉はいつの間に指示を出したのであろうか、峠に雪を見た12月7日には、秀吉の指揮下に入る武将達は次々と京都に馳せ集まっていた。秀吉は安土を経て10日には彦根の佐和山城に入った。秀吉には今の段階において長浜城を攻略する何の名分もない。そこで秀吉はいつもの謀略を用い長浜城の内部崩壊を図った。城主柴田勝豊は既に病の床にあったので、京都の名医間直瀬(まなせ)道三を見舞わせ何くれとなく親切に世話をさせた。更に配下の木下半右衛門大鐘藤八郎へは金品を送り今後の道を約して、城内で秀吉方に有利に働くように申し入れておいた。根回しができると秀吉は勝豊に書を送り、勝家が信孝と結び、三法師丸(信長の長男信忠の嫡男)を安土に帰さざるなどいろいろと非を嘆いた上、

今日までは勝家殿を父とも思い、ご親交を給ってきたが、やむなく一戦を交えねばならない事情に至ったことを残念に存じる。その点勝豊殿にもご理解を得たい。勝豊殿が叔父勝家殿にご忠勤をはげまれようと思われるはご自由で、城を開け越前に退かれることを妨げるつもりはござらぬ、特とご分別あるように、ご分別によっては所領もそのままに致す所存にござる。

これは明らかに降伏勧告状である。


長浜城

 長浜城内は重苦しい空気に包まれていた。会議は夜通しで行われていた。勝豊も病をおして正座に座っていた。重臣木下半右衛門から今朝から長浜城が置かれている事情が説明された。

越前は深い雪の中にある。勝家殿に援軍を依頼したとしても来られるものではない。越前に引下がるとしても一戦も交えずして、引下がれば主君の面目が立たない。2里先の佐和山城には既に数万の秀吉軍が出陣を待ち構えている。それに我らの主勝豊殿が城主につかれ僅か4ヶ月、領民は未だ城主のお顔すら十分に知らないのに比し、秀吉の長い領主の間に領民は未だに秀吉公を慕っている。秀吉と事を起こしても領民は我らには味方しないであろう。 今は筑前殿と戦って全員ここに果てるか、筑前様に従うかの二つより道はござらぬ

これには居並ぶ諸公も一言とてなく、しばし沈黙が続いた。勝豊は例の老臣徳永寿昌に向かってねた。

寿昌、そなたはどのように思われるか

寿昌も黒田官兵衛を経て秀吉に通じていたので、

この場合越前からの後援は見込まれません。ここは降伏して春を待つが賢明かと存じます

勝豊とて心進まぬ事であったが、城兵もろ共生き延びるには、秀吉に従うほかに道なしと決心した。

勝家殿は殿のご養父、叛くは人の道にあらねど、このたびはよくよくの事、一同殿に従うことに致した。ついては各々方には越前に家族を残しして居る者もあろう。越前に帰るもよし、勝豊殿の元にとどまり筑前殿に従うもよし、それぞれよくお考えの上、それぞれの道を選ばれよ。また柴田殿に忠誠を尽くしたく、筑前殿につくを潔しとしない方は、ご遠慮なく立ち退かれたし。

と木下半右衛門から締めくくりの言葉があった。

 この会議は豊勝はじめ、どの武将にも腹をえぐられるような苦渋と悲しみと、屈辱に満ち満ちていた。それでも会議が終わると越前に帰りたいと言う者もかなりあり、その夜は主従別離の杯が交わされ、越前に帰るものは一かたまりとなって、長浜を発った。翌朝勝豊は秀吉に使いを出し、

勝豊以下家中一統ご配下に加えられたく、宜しきようお願い申し上げます

と降伏を伝えた。秀吉満足の意を表すると共に、早速領土安堵の墨付きを与えた。かくして勝家に与えた長浜城は再び秀吉の元に帰ってきたことになる。

 秀吉は長浜城の勝豊を監視するために、小谷山攻撃当時使用し、今では荒れるままになっていた横山城を修築し蜂須賀家政を、佐和山城には羽柴秀長を残すと、直ちに兵を東に向け、12月20日丹羽秀長、筒井順慶、細川忠興、池田信輝、蜂谷頼隆らの軍団はぞくぞくと大垣に入った。目標は柴田勝家に盟約を結んでいる信長の三男岐阜城主の神戸信孝である。信孝は勝家と盟約を結んでいるとはいえ、秀吉にとっては主君の子で理由なくして秀吉とて信孝に弓を引くことはできない。

 秀吉は清洲城主信長の二男北畠信雄に働きかけた。信孝の非を説き、

三七殿(信孝)勝家殿と組み、しきりに暗躍し、父君信長殿の遺業を我がものにせんとしている。そのために、安土にお移しする筈の三法師君を岐阜の自城に抑留し、清洲条約を公然と踏みにじっておられる。このままにしておけば勝家殿と組む三七殿は織田家を危うくするものである。北陸の雪で勝家殿の動けぬうちこそ三七殿に反省を促す好機と存ずる。直ちに信雄殿の挙兵あれば秀吉お助け致す所存にござります。

と使者を出し信雄を説いた。信孝は秀吉が三法師丸を盾に織田家を勝手にしようとしていることが目に見えていたので、安土の仮館が完成しても、安土へは渡さなかったのである。信雄はまた清洲会議で、二男の自分を差し置き三男の信孝を織田家の跡目にしようとした勝家にも、まだ織田の跡目は自分と信じている信孝にも好意が持てなかった。この弱点を秀吉が利用したのである。一般の人々から不肖の子との評のある信雄は、人の心の裏表を十分知っている秀吉の策の前には幼児にも等しかった。直ちに信孝討伐の令を出した。これを受けて秀吉5万の大軍をもって一気に大垣に攻め入ったのである。大垣城主氏家行広、曾根城主稲葉一鉄らは秀吉の大軍の前に戦わずして降伏していった。秀吉は大垣に本陣をおくと、岐阜城の支城を次々と落とし、岐阜城に迫った。城下に火を放つと、岐阜城の攻撃に移った。


岐阜城

 信孝は、秀吉を今まで配下にある如く感じていた。いつも礼を低くして、織田家の一族と自分を奉っていた秀吉を想像していた。しかし今日の秀吉は違っていた。兄信雄と共に、"逆臣信孝を討つべし"との明らかな旗印を立てて自分に迫っているのである。まさに猫が虎に化けたかの感じであった。勝家の援護も受けられない今は、秀吉に降伏して助命を歎願する以外になかった。秀吉は信孝に降伏の条件として、

1.三法師丸の君を直ちに秀吉に渡すこと
2.人質として信孝の生母坂夫人、信孝の妹、家臣岡本良勝、幸田彦右衛門尉両人の母親を渡すこと。

仕方なく秀吉の条件を入れ降伏した。今まで織田家の家臣であった秀吉から、一夜にして織田家の逆臣の汚名を着せられ、これほど惨めな敗北を喫しなければならないのかと思うと、信孝も悔し涙を抑えることができなかった。天地逆転とは全くこの事を言うのであろう。

 秀吉は三法師丸や、人質たちを受け取ると意気揚々と安土に引き上げた。途中余呉に馬を進め雪に被われた賤ヶ岳から柳ヶ瀬付近までをつぶさに踏査して次への準備を忘れなかった。12月29日は宝寺城に立ち寄り、すぐに姫路城に帰り、家族や一族郎党と正月を迎え、天下の春を寿いでいた。

 この頃勝家は長浜から、岐阜からと続く敗報を耳にしながら切歯扼腕し、天主に上っては降り続く空を眺め、翼があれば飛んでも行きたい思いであった。正月を迎えても雑煮も喉を通らず、寝ても眠れず、ただいらいらするばかりで名案とて浮かばない。峠の雪はもう厚い壁となって越前兵の動きを閉じ込めていた。


続く

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