2. 栃木峠・椿坂峠(椿井峠)

とちのきとうげ・つばきざかとうげ(つばいとうげ)

 栃木峠椿坂峠は北近江と越前今庄を結ぶ最短距離の道である。椿坂峠は標高497m、栃木峠は標高537mの高所にある。しかし古くはこの両峠を越えるのは大変な難所で栃木峠から越前板取に下りるには俗に板取崩れといわれた崖であった。それで道は柳ヶ瀬から刀根越を経て疋田に出、ここで西近江路から山中峠を越えてきた道と合流し敦賀に出る。敦賀からはさらに木の芽峠を越えて今庄に出ていたので、椿坂峠を越える道に比べ2倍以上の回り道になる。しかし現在の椿坂から今庄に達する道は当時は全くの木こり道で、余程先を急ぐ人でなければこの峠を越えなかった。それまでにこの峠越えが歴史に残っているのは、一条天皇の病気平癒祈願に湯尾明神に向かった安部清明や、木曽義仲を迎えうつために向かった平家大軍の東路を進んだ者、新田義貞の越前落ちなどがある。しかし平家の大軍や新田義貞は能美越を通っている。能美越も椿坂峠も同一で越前杉箸から椿坂峠に登る坂を能美越えといっている。新田義貞は栃木峠を越えないで中河内から敦賀に出て裏から金ヶ崎城に入っている。

 この最短距離の道を切り開き改修したのが柴田勝家である。柴田勝家は、信長より越前を領土として与えられ天正6年(1578年)北の庄に落ち着くと、北の庄城の築城工事と並行して、織田信長の拠城、安土への最短距離の軍用道として、今庄から柳ヶ瀬までの道路工事を行った。この道はもともと柳ヶ瀬断層の細い谷間を通っているので、今庄から木之本まで一直線に進んでいる道であった。今までの木こり道から、一気に馬車の通る道に拡幅しようというのであるから大工事であった。栃木峠から柳ヶ瀬までは北近江に属し、秀吉の領地であったが、信長も認めていたし、また秀吉も当時は柴田の柴と丹羽の羽の一字宛をもらい、木下の姓を羽柴と変えたほどで、勝家を先輩として立てていた頃であるから異議のあろうわけもなくむしろ協力した方であった。

 最難所は椿井峠(能美峠)と栃木峠と板取崩を通す道であった。今庄の城主「赤壁家系図」によると長享(1487年)〜延徳(1484年)時代は栃木峠のことを杓子峠と呼んでいた。この付近は周囲1丈2尺(約364cm)径約4尺(約131cm)もの栃の巨木が群生し、木地師が多く入り、栃材を使って杓子やバンバコ(雪掻板)を造っていたので杓子峠と呼んでいた。今に残る越前杓子はその名残である。栃の実はこの付近に住む人たちの貴重な食糧であった。栃木峠下の板取崩れは急に谷に出て、長年の浸蝕により岩崩れの崖になっていた。板取は当時人も住まない地で、一面にイタドリが密生していた地である。栃木峠はまた日本海側と太平洋側の分水嶺にもなっている。椿井峠は椿井嶺ともいわれ、大黒山系の山嶺を切り開いたもので、深い原生林の中に細く嶮しい道が通っていた。

 勝家は天正6年の春雪解けを待って工を起こした。工事は今庄から始められ、板取までは比較的楽に進められたが板取からは、谷の西側の山の斜面を削り、山に添って斜面の中腹を切り開き峠の上までたどり着いた。道幅3間(約5.5m),縁は両側へ3尺(約90cm)その両側へ排水溝を3尺の幅で掘り、更にその両側に土場(平地)を6尺(約1.8m)を取った。無論全長をこの幅で進むことは困難で、山の斜面を削り造った所などは道幅3間のみのところもあった。こうして今迄から人が住み着いていた中河内椿井の部落を結び宿とした。中河内から今庄までは部落がなく、距離が隔たっているので、虎杖(イタドリ)の生い茂る平地に板尻村を中心にあちこちから宿を開くに必要な民家を集め虎杖宿を作った。これが今日の板取である。かくて柳ヶ瀬から今庄まで間に椿井宿、中河内宿、板取宿と一里ないし1里半毎に宿を置き、通行を便利にした。この道の完成は近江と北陸を結ぶ交通路を一変してしまった。今までは木の芽峠、山中峠を越えて西近江を経て京に通じていたが、この道によって今庄からは半分の時間で近江へ出て、京へでもまた江戸へも通じるのであるから、明治に至るまで北国街道東近江路として栄えた。


板取宿


木の芽峠茶屋

冬の雪

 しかしこの道には、いかに権力を誇る信長にしても勝家にしてもどうすることもできない、大きな悩みを持っていた。それは冬の雪であった。毎年11月を過ぎるころから吹きつける、北西の季節風は、日本海上の冷湿な空気をここに運ぶと、東側の山に遮られ、雪となって舞い落ち、断層の谷間のこの道を雪で埋め尽くすのであった。3月の終わりまで、来る日も来る日も季節風は雪を運び、峠の雪は少ない時でも4m多い年は6mにも達し、あるときは吹雪きとなり、ある時は雪崩となって荒れ狂うのであった。勝家は栃木峠の上に深見老夫婦に旅宿と茶屋を兼ねた峠茶屋を開かせた。深見夫婦は名物の栃餅を作り旅人達の旅情を慰めていたが、冬になると雪で動けなくなった人達のお救小屋でもあった。それでも冬になると、この沿道で雪のため命を落とす人は少なくなかった。福井藩の記録によると、江戸城修復工事のため送られた福井藩からの人夫800人が、椿井峠を越える時雪のため死亡したと記されている。800人という人数は1回の雪崩で死す人数の限界をはるかに超えているので、おそらくこれは凍死と考えられる。雪の時期を過ぎれば、この道は勝家にとって安土に通じる最高の軍用道路となった。


続く

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