9.北の庄城の陥落



柴田勝家


お市

お市の方

 勝家敗残の身で北の庄城にたどり着くと、いち早くお市の方が迎えに出た。勝家はお市の顔を見ると無様な身を恥じてかたがた一言「かかる醜態をお目にかけ面目ない」と頭を垂れた。お市は勝家が賤ヶ岳で敗れた事は知らされていたが、出陣の時のあの勇士の面影はどこへやら、身も心も疲れ果てた勝家の身を不憫に思ったのであろうか、一言「覚悟はできております」と言っただけで、後は言葉が続かなかった。織田家の再興の願を勝家にかけて嫁いでは来たが、今はその夢が破れたという事よりも、今まで自分を優しく包んでくれていた勝家がいとおしく、この人とならば何時死んでも悔いはないと思うのであった。

 勝家は配下に命じ籠城の準備をさせた。それは戦うというより、一族の死場所をつくったという感じであった。先ず将兵の妻子には、城内に残る軍資金を分け与え縁故を求め城を出て、それぞれに離散させた。
 城内の兵3千とはいえ、非戦闘員も混じっていたので、戦う能力のある者は2千ほどではなかったであろうか、これではとても広い城内を守る事は困難なので、二の丸、三の丸だけに兵員を配し、ここに立て籠もったのであった。

 23日、前田利家を先鋒に北の庄城に到着した秀吉は城を包囲すると共に本陣を愛宕山においた。前田利家にとって、この先鋒は生涯の戦いにとって最も苦しい戦いではなかっただろうか。利家は秀吉とは幼き頃よりの友人ではあるが、二人の生涯の生きかたを見る時、利家は決して秀吉に心服はしていなかったのではないかと思われる。賤ヶ岳で敗れて府中城に立ち寄った勝家は、利家の裏切りによって柴田方が敗れたのであるが、それに対しても恨みがましき事は一言も言わず、ただ長年の交誼を謝し、何も酬いることのできないことを詫び、今後は秀吉を頼られるようにと話して立ち去る、勝家の言動には何の恨みも皮肉も感じられなかった。帰城後は人質に預けてあった娘「摩阿」を使者を送りつけ返している。勝家の度量の大きさに敬服していた。それに比し秀吉には勝者として従っているのみで、勝家に対する心情とはかなり異なった思いを胸に抱いていたと思われる。勝家が送り返した娘摩阿を秀吉は連れ去り、側室とした。二人の娘までを人質として側室にされている男を真の友人として心腹できたであろうか。秀吉の衰運を見るや、徳川家康に味方して行ったのも、決して利家の世渡り上手とのみでは片付けられないものがあると思われる。
 利家の気持ちを察してか、利家は勝家の助命を条件に秀吉に従ったという説もあるが、これは全く後世の人の作り事であろう。そんな事で許す秀吉でもなければ、秀吉の恩情にすがり、命長らえようとする勝家でもなかった。

 秀吉は次第に包囲を縮め、激しい鉄砲合戦の末、本丸の土居際までは押し詰めていった。そして城内に聞けよとばかり、「御子息権六殿(勝敏)ならびに玄蕃允、山中にて生捕利他離、痛わしき御事よ」と城内に向けて怒鳴った。城内でこれを聞いていた勝家も、もしやとまだ心頼みにしていた盛政も勝敏も捕らえられたとあり力を落としてしまった。そしてこれ以上戦うも無駄、いよいよ最後を迎えたと覚悟を決めた。

  城内には各門が固められたのみで、抵抗は止まり、明々とあかりがつけられ、最後の別れの酒宴が開かれる事になった。それに先立ち勝家は妻お市の方に向かい、

「勝家の念願かない、そなたを迎えたが束の間の縁でござった。そなたは主君信長公の妹御なれば、秀吉とて疎略には致すまじ。早く城を出て、秀吉を頼られよ。」

これに対しお市の方は、

「去年の秋岐阜よりここに参り、今日の日まで厚きお情を蒙りましたが、宿世浅からぬ縁と存じます。さきに浅井の元に死すべき身、今またかかる欺きを見るは、我が身にまとう運命と存じますれば、この後筑前殿にすがればとて、良き月日に逢えるとも思われません。短き御縁とて百年の契の思い、身にしみて忘れ得ませぬ。なにとぞ死出の道にお連れ下さい。ただ3人の子女だけは助けて、果敢なき父や母の菩提を弔わせとう存じます。」

「それほどまでに勝家を思うて下さるのであれば、共に手を取り六道の辻を越え申そう」

と二人の心持は固く結ばれて離れなかった。

 お市の方が勝家に嫁いだ事について、一説には清洲会議で決まった事で、秀吉はお市と長浜城を勝家に与え、その他を思うようにしたなどと記したものもあるが、清洲会議では秀吉がお市のことに口出しできる力もなかったし、お市は徹底的な秀吉嫌いであったので、秀吉の言などに左右もされなかったであろう。お市が勝家の元に嫁ぐ決意をした裏面には、信孝の仲介もあったであろうが、兄信長亡き跡の織田家の跡を案じ、織田家を潰したくなかったのであろう。織田家再興の夢を勝家にかけていたと思われる。また信長の家臣の中では勝家が最も織田家再興に熱意を持っていたと思われる。

 勝家は三女にわけを聞かせ、直ぐに城外に出るようにと言ったが、長女の茶々は15歳(記録によっては17歳とも13歳ともある)。もう世の憂き事も心得ているので、自分の将来を思い、母と共に死なせて欲しいと歎願して去ろうとはしなかった。勝家は中村文荷斉に命じ、母にしがみつき離れようとせない茶々を無理に引き離し秀吉の陣に送ったという。賤ヶ岳戦記には富永新六郎を付けて秀吉の陣に送ったとあるが、いずれが正しいかは分からないが、三人の子女が秀吉の元に送れた事には間違いない。
 秀吉は三人の子女を連れ帰ると間もなく、長女茶々を自分の側室にしてしまった。これが淀君である。

 勝家は三人のほかにも、自分の姉末森とその息女上村六左衛門に行末を頼み城外に出した。おそらく死後の菩提を弔ってもらいたかったのであろう。上村六左衛門は城を枕に勝家に殉じる覚悟でいたのに、意外な勝家の頼みに戸惑ったが、勝家に言われた通り末森殿と息女を粗末な輿に乗せ、椎ヶ谷の奥、竹田の里に到り、ここに草庵を探し当て、ここに二人を預け、急ぎ帰城せんと往還に出て行った。翌24日の甲の刻北の庄城の天守に火がかかり、黒煙激しく立っているのを末森殿はるかに望み見て、北の庄の落城を察し、兄勝家も自害した事であろう。この後どれだけ生き果てるべき身でもなし、世にあって憂き事を見んよりは、早く黄泉に行きたしと考えた。息女も同じ思いで、疎ましきこの浮世に何ぞ心残り惜しかろう。母と共に自害しようと覚悟した。側にあった硯を取り寄せ、まず息女が

思いきや 竹田の里の草の露 母上ともにきえぬものとは

と認めると、母も涙を押しぬぐい、

今ここに六十路あまりの日の数を ただ一時にかへしぬるかな

と書き添えて、剣を抜き互に胸元に突き立て、自害した。そこへ上村六左衛門も、北の庄城の落城を察し、胸騒ぎして、駆け戻って見れば末森殿母子の自害した後であった。勝家殿からあれ程頼まれしものを、ただ城に帰り討死したい一念で、ここまでくればと母子を置いて行った結果が、かような事になった事を悲しみ、自分も後を追うべく、草庵に火をかけ死骸を消すと共に、自分も立ちながら腹を切り火中に飛び入って死んでいったという。聞く者皆袖をぬらさぬ者とてなかった。


北の庄城最後の酒宴


 北の庄城内の最後の酒宴は23日夜遅く始められた。勝家は一族および近臣80人余人を本丸の天守に集め24日の明け方まで行われた。残る近臣達も家族はほとんど城外に落ち延びさせていた。
 勝家は柴田弥右衛門尉を呼び「今宵は飲み明かすのだ」と城内の酒すべてを、各々の櫓に配らせた。また中村文荷斉には、各地の戦いに主君より受けた恩賜の品々を大広間に飾りたてよ、この世の名残を告げるのだと、数々の錦繍綾羅、武具、茶器、文書、書画の類を所狭きまでに並べた。勝家はその中から青磁の花器を取り上げ、

「これは信長公より、北の庄に赴く時、大国に任ずるしるしとして汝に与えるとて賜った蕪梨子の花入である。この名器を我と共に滅ぼすのは畏れ多い故、そちにとらせる大切に伝えよ。」

と言って文荷斉に渡すと、文荷斉は恭しく押戴き、縁の方に立つと、そこの柱にうって粉微塵に砕いてしまった。

「さてはその方も勝家と死を共にしてくれる気か」

「今更何を仰せになります。君亡き後に独り生き残って花を活ける文荷斉にはござりません」

この言葉は勝家も、余程嬉しかったのであろう。顔面に笑を浮かべながら文荷斉に盃を差し出した。お市も微笑みながら酌をしてやっていた。これが死を直前にした夫婦とも見えないくらい静かな一瞬であった。

 家臣の中村与左衛門、大屋兵衛門、松浦九兵衛、佐久間十蔵、小島若狭守、柴田弥右衛門尉、村本甚五兵衛らも、平常と変わりなく談笑しつつ、酒を酌み交わしていた。宴も終わり勝家はお市の方と共に奥に入った。その時詠んだと伝えられる辞世の歌が残っている。

さらぬだに 打ち寝る程もなつの夜の わかれをさそう時鳥(ホトトギス)かな  お市の方

夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす  勝家

契あれや 涼しき道に伴ひて 後の世までも 仕えつかへむ  文荷斉


 24日午後3時頃より総攻撃に入った。城内に残る兵はすべてこれが最後の戦いと心得ているので、一人として死を恐れる者なく、その反撃もまた凄まじく、矢弾つきるまで撃ちまくった。秀吉もこれを見て「さすが勝家よな、あの寡兵で、城を支えてもう幾時か、さすがは名将である」と感じ入った。しかし感じ入ってばかりはいられない時の過ぎるにしたがい秀吉の兵もその犠牲を大きくしていった。無論城内の兵も減って行くのであろう。抵抗も少しづつ弱まっていった。
 秀吉は最後に槍隊を城内からの乱射をくぐり抜け城内に突き込ませた。その頃は城内の兵も残り僅か隣、煮の木戸、三の木戸も脆くも破られた。勝家も今はこれまでと、戦いを止めて、天守に入った。そして文荷斉に命じ階下に積み上げてあった秣に火を放たせた。勝家はお市と共に自害していった。城内に残る男女すべての腹を切るもの咽喉を突く者、それぞれの死に方で勝家に殉じた。中にはまだ死に切れないのか、かすかに称名念仏の声がしていた。しかし火炎はまたたく間に城内に燃え広がり、勝家がここに城を築いてわずか7年、天守を包みかくすようにして黒煙と炎の中に消えていった。天守の鬼瓦は石でできており、この瓦のみ西光寺に残っている。

 一説には、勝家は最後に火薬に火をつけ、天守もろ共爆破したとあるが、無様な遺体をさらしたくないのが武士の願いなので、火をつけて後形なく焼いたのが事実であろう。しかし火炎が火薬庫に燃え移り一部では爆発したのであろう事は考えられる。
 胸を締め付けられる思いでこの戦いを見つめていた利家も、すべてが終わると、ほっとすると共に、勝家に対しすまない様な気持ちで、心に合掌しつつ静かに頭を垂れていた。

 北の庄が落城したのが24日の午後の5時であった。勝家は僅かの兵で一日の間城を支え秀吉を悩ましたのである。
 この時勝家57歳(62歳ともいわれる)、お市の方37歳であった。


柴田勝家像


お市の方像


 この勝家の最後に一役買っている中村文荷斉については詳しい事は分からないが、いまダム工事の進む岐阜県揖斐郡徳山村の中村氏の祖先であるという。賤ヶ岳合戦に破れ秀吉に許されることなく余呉町洞寿院に隠まわれ、助かった。徳山則秀が、後徳川家康に仕え徳山城主となり、洞寿院の僧を招請して建立した徳山氏の菩提寺増徳寺の墓地の中に文荷斉の墓がある。

ああ 北の庄           西沢爽作詩  古賀政男作曲

1. 戦い敗る 賤ヶ岳 死なば柴田勝家が
      青葉の城に たちもどる
       涙を見しかほととぎす 
        ああ 北の庄 英雄あわれ 北の庄

2.名残りの酒を くみかわす 灯くらき天守閣
   散りゆく花の はかなさを
    いとしき舞えや わが妻よ
     ああ 北の庄 ほろびてあわれ 北の庄
(朗詠)
  夏の夜の夢路 はかなき跡の名を
   雲井にあげよ やまほととぎす

3.お市の方の月の眉 偲べと遠く四百年
   流るる水に面影を せめてはうつせ足羽川
    ああ 北の庄 いにしえあわれ 北の庄

 秀吉は北の庄に柴田一族を滅ぼすと、更に手を緩めず、翌25日には佐久間盛政も居城のある加賀に兵を進めた。当時徳山則秀小松の城主であった。徳山則秀はその時前田利家にすがって開城降伏し命乞いをしたと太閤記などには記しているが、これは誤りで、則秀は不破勝光や、金森長近のように利家と共に戦わずして戦場を離脱したのではなく、最後まで戦っていたので、敗れて余呉町の山中菅並にある洞寿院に隠まわれ、その後高野山に逃れたので、小松城へは帰ってはいない。だからここで開城して降伏する事などありえない。若し降伏した者があれば留守を預かっていた者であろう。徳山則秀の娘は佐久間盛政の妻である。盛政の縁で勝家に仕えたのであった。その後戦い治まり、平和になってから後高野山を出て前田勝家の元に身を寄せたのである。則秀は五兵衛とも言われたが、寺に隠れ百姓の姿に身をやつし、秀吉の目を逃れていたので一時芋堀五兵衛などの汚名を受け辛酸をなめ、徳川家康の世になり家康に仕え、徳山城主になったのであった。

 秀吉は4月27日には佐久間盛政の居城である尾山城(金沢)に入った。留守居の家臣達も何も抵抗することなく秀吉は城を受け取ると、4月30日までここに滞在した。

 富山城主の佐々成政上杉景勝抑えのため、勝家に従い賤ヶ岳合戦には参戦せなかったが、勝家方であることは間違いないので、秀吉の北陸侵攻には一時緊張したが、自分の方から攻めない限り秀吉の方から攻撃される事のない事が分かると、早速使者を秀吉に送り降参した。秀吉は成政の娘二人を人質に取り旧領を安堵した。


小松城跡


金沢城


富山城


 かくて秀吉は北陸の巨星柴田勝家を滅ぼすことにより、北陸を平定してしまった。

 お市の方の3人の娘は、どうなったのだろう。

 まず長女茶々は、秀吉の側室となり淀君として1593年、秀頼を生み天下人の世継ぎの生母として権勢を誇った。しかし1615年大阪冬の陣、夏の陣で徳川家康と対峙して惨敗に終わり自害。豊臣家は滅亡した。

 次女、は京極高次に嫁ぎ、一度は滅亡した京極家を再興している。

 三女、は徳川秀忠(2代目将軍)の正室となり、3代目将軍家光を生んでいる。そうして徳川幕府は200年以上続いたのであった。

 ・・・織田信長の血、浅井長政の血は、女系を通じて天下を制したのであった。


合戦マップ

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