8.毛受兄弟の討死
めんじょうきょうだいのうちじに 中之郷北はずれの左衛門の辻は、余呉湖畔や中之郷方面からの道、また国安、池原方面に通ずる道や東野方面の道の分岐点になっている。秀吉はここを通り過ぎようとした時には、もう余呉湖方面の戦いで手柄を立てた兵たちが、秀吉に首実検をしてもわらんと、ずらりと並んでいた。
秀吉も、「うーん、手柄、手柄」とは言ったが、まだ前に勝家の本隊がいるので先を急がねばならない。側の三好孫七郎と、東野山を降りて来た堀秀政の手の者によく控えおくよう命じて前を急いだ。狐塚には柴田勝家が4千の兵を率い陣取っていたが、朝より入ってくる情報はすべて敗報ばかりであった。それに秀吉の大軍が次第に迫るにつれ、兵達は次第に動揺し、5人、10人と組を作って逃亡していった。はじめ4千あった兵も、いつの間にか2千に減ってしまっていた。
勝家も今は盛政を怒って見てもどうにもならなかった。重臣達はこのままでは、勝ち誇った秀吉の大軍を相手に戦っても到底、勝ち目はない。負けるに決まっている戦いをするよりひとまず本国に退き、その上兵を立て直して戦ってはと進めたが、勝家は城に帰ったとて勝てる目当てはない。勝家敗れて逃げたとあっては武士の面目が立たない。勝つも負けるも時の運、ここで秀吉と最後の一戦を交え、武士らしく討死する。と言って退こうとはしなかった。勝家の決意を見て取ると、小姓頭の毛受(めんじょう)勝助、走り寄って勝家の馬の手綱に手をかけ、「殿、殿のお気持ちはお察し申上げます。けれどもここは殿の討死する所ではありません。ここで雑兵の手にかかり相果てたとあれば、それこそ殿末代の恥辱、どうかここは私にお任せください。必ず敵を食い止めております。殿は直ぐに御帰城の上、静かにご自害下さい。どうか殿の御名と馬印をこの勝助にお遣し下さい」
と、声涙もって諫めたので、この場に臨み、自分の身代わりになって死のうとしている勝助の至情に動かされ、勝家の目に涙が浮かんでいた。戦場に出れば鬼柴田といわれ、かつては勝家の涙など見たこともなかったが、勝家も人としての激しい感情に動かされていたのであろう。あるいは勝家最初にして最後の涙であったかもしれない。鬼の目にも涙とはこのことか。勝家は静かにうなずくと馬印を持っていた傍らの小姓に目配せすると、小姓は馬印を勝助に渡した。勝家は馬を北に向けると、
「では頼むぞ」と勝助に一言、言葉をかけ「心ある者は勝助と共に残れ、他は後に続け」と下知すると、一路北国街道を北に向け走り去った。勝助は勝家の馬印、金の五幣を受け取ると、林谷山の原彦次郎の空砦に入りここに馬印を立てた。この砦に入ったのは、毛受勝助の配下300人と、勝家が心あらば残れと言ったので、勝家配下の中で残った者、更に余呉湖畔の戦いで敗れ引き上げてきた、勝助の兄茂左衛門(一説には弟庄兵衛ともいわれる)など併せて、総勢500人程になっていたのではないかと思われる。
秀吉の大軍は、勝家の本陣狐塚に迫ってくると、西の林谷山の上に勝家の馬印が午後の陽にきらきらと輝いている。秀吉も、勝家ここに籠って一戦を交えるつもりだと知ると、用心して一気に攻める事を避けて、遠巻きに包囲し鉄砲隊で攻撃したが、林谷の砦は静まり何の反応もなし、これに血気にはやる秀吉方の兵は、我こそは柴田勝家を討たんと討って出る。十分に秀吉の兵を引きつけておき、城内から一斉に鉄砲を撃ち、混乱に落としておき一斉に討って出て、縦横に突きまくり、散々に伐りまくって、さっと城内に引き上げる。「何を小癪な」と次の隊が討って出ると城内からは同じように十分引きつけておいては討って出る。こうした事を繰り返すこと幾度、秀吉方の討死も大きいが、毛受勝助の方も、討って出る度に5人、10人と討死していく。始めは500人程あった兵も次第にその数を減らし、余すは十余人となった。勝助兄茂左衛門と力を併せ、秀吉の兵を一兵も通さず、勝家の越前落ちに十分時間を稼ぐと、最後まで残った十余名の者に、
「皆の衆、いよいよ最後の時が来た。再びこの砦に引き返す事はないであろう。互に力を併せ主君のために武士として恥じない死に方をしようではないか」
と告げると皆覚悟は十分できているので「おぅー」とばかりこれに応じた。真先に勝助、
「我こそは柴田修理之亮と名乗りしは偽り、柴田の中に毛受ありとはわが事なり、武運拙くこの戦いに敗れたれども、武士の最後を飾りここに散らんと思う。我れと思わぬ者はお出会いあって手柄を立てられよ」
と、兄茂左衛門をはじめ残る十余名の者は討って出た。窮鼠猫をかむの例えの通り、その勢いの凄まじさ、取り巻いていた秀吉の大軍も、次第に退くありさまであった。
「敵は十数名ではないか、何を手間取っているか、退る者は斬れ」
という激しい秀吉の叱責に、退ることも出来ず、出れば討たれる有様であった。しかし秀吉が方は多勢、毛受勝助らの抵抗も限界があり一人倒れ二人斬られ、勝助も遂に右肩を矢で打ち抜かれ、馬から転び落ちた所を駈け寄った敵に首を討たれた。この時勝助の首を誰が取ったかについても説は分かれ、明らかではない。蒲生飛騨守氏郷の家臣原孫右衛門が毛受勝助の首と金幣の馬印を取ったという説。堀半右衛門と小川祐忠の郎党に討たれたとか、小川の家臣大塚彦兵衛が弓にて射たという説。稲葉八兵衛、伊沢吉介、古田八左衛門、その弟古田加助の四人同時に襲いかかり、加助が槍で突き倒した所を八左衛門が其の首を取ったという説。堀秀政の家臣堀半右衛門駆け寄って金幣を奪い取り、これを取り返さんとした一人を突き殺したという説などまちまちである。これは勝助一人に多数の者が駆け寄って首を討ったので、まちまちの説が出ているのであろう。また金幣は砦の中に立ててあったもので、一人で首と金幣を取ったという説も、最後は毛受勝助の方は一人でも多く敵を殺し死ぬ覚悟で出ているので、金幣を取り返そうとした者がいたなどの説もおかしいと思う。
とにかく、秀吉はじめ、その家臣たちも、みな柴田勝家が、ここにある者と信じ、全兵をここに止めて、戦っていたので、首を取って見てそれが勝家の身代わりと知り唖然とした。しかし武勇の勝れた者に対しては、敵も見方もなく称賛し高く評価する秀吉であるから、この毛受勝助の主君の身代わりとなり、かくまで戦った功にひどく感動したようである。早速、亡骸を懇ろに葬り、近くにありし全長寺の僧に弔いを依頼して北に急いだ。
この地に今、滋賀県令であった籠手田安定氏によって、兄弟の墓碑が建立され、勝助遺族による毛受会や、土地の人によって組織する保存会の人々によって、今も供養が続けられ、全長寺は菩提寺として位牌が安置されている。秀吉は北陸平定後、勝助の母をさがし出して慰め、食田を給して将来を保護したという。
ただ惜しむらくは、毛受兄弟と共に同じ心を持って、この地に散っていった将兵の名が一人も書き留められていない事で、これも敗軍の悲しさであろうか。秀吉も毛受兄弟の如き忠臣を討った事に心傷んだのか、その首を取った者へは、それが勝家の首でなかったからとの理由で賞を与えなかった。ただ金幣を奪った堀秀政の下臣にのみ、これは本物との理由で黄金や刀などを与えている。
毛受勝助はまだ25歳で勝家の小姓頭であった。勝助は愛知県春日井郡稲葉村の出で12歳の頃より勝家の小姓として仕えていた。織田信長が一向一揆が立て籠もる長島を攻めた時、勝助は17歳で勝家に従ってこの戦いに参加していた。戦いは乱戦となり勝家敵に金幣の馬標を奪われた。勝家武士の名折れと、死をもって馬標を取り返さんとした時、勝助「私にお任せください」と単身敵兵の中に紛れ込み、馬標を持っている兵に近寄りいきなりその兵を斬って馬標を取り返し面目を保った。勝助はそれまでの名を毛受荘介照景といったが、勝家喜び勝家の名を与えたので以来名を毛受勝助家照と改めた。その後多くの書は勝助の名をいろいろに書き違えて少介、勝介、庄介、庄助、荘介などと書いているが、荘介か勝介かが正しいようである。こうして勝助は柴田勝家の馬標金の御幣によって名を上げ、賤ヶ岳の合戦では、その金の御幣と共に散っていったのであった。よほどこの金幣に縁のあった人と思える。
この金幣は後に佐久間盛政と共に京の都を引き廻されたが、それがどうして帰ってきたのか、今福井市の西光寺の柴田資料館に置かれている。
毛受兄弟の墓(余呉町新堂)
勝家、府中城に立ち寄る
毛受勝助がこうして時間を稼いでいる間に勝家は、一路柳ヶ瀬から椿坂峠、栃木峠を越えて越前に出ていた。5年前、勝家がこの峠道を切り開く時、沿道の村々からは毎日多くの人夫を出し、協力してくれた。勝家が見廻りに行くと、椿井の人も中河内の人も、お寺の縁や、神社の木陰で、茶や手作りのちまきなど出して接待してくれたことなどが思い浮かんできた。そしてようやく開いたこの道が、村人はおろか旅人にどれだけ喜ばれた事であろう。それまでは獣道というか、木こり道というのか、生い茂る原始林の中をうねうねと細い道が通っていただけであった。それが馬車の通る広い道となり、それに越前から近江に出るには3分の1の短距離になったのだから、旅する者なら誰でも喜ばぬ者はない。それ程苦心して作ったこの道が、賤ヶ岳の合戦には峠は数メートルの雪の壁を作り、勝家の近江出陣を頑強に拒み一兵も通さなかった。それが賤ヶ岳で戦っている2ヶ月半余りの間に峠の雪はすっかり消え、山には白いこぶしの花が咲き競っていた。沿道の人達は戦いに脅えて、山に隠れたのであろうか、人影は見えなかった。峠には勝家の敗北を悼むかのように、山鳩が「ほう、ほう」と鳴いていた。栃木峠の上には、勝家が開かせた峠茶屋があった。茶屋守の老夫婦は、いつもと違った勝家の険しい顔に、おそるおそる渋茶に名物の栃餅を添えて出したが、いつも縁に腰をおろして茶をすすりながら老夫婦らに冗談を言って笑わせる勝家も、今日は縁にかける事もなく、老母が出した茶に手もつけなかった。ただ立ち止まって、しばしあたりを見つめていた。5年前苦心して切り開いたこの道を、5年後の今敗れて落ち延びていかねばならぬとは。2ヵ月半前には一歩も通れなかった峠の雪もすっかり消え、あたりは晩春の陽光に光り輝いていた。あたりをながめる勝家の目には無念の涙が光っていた。
「ああ、あの時この峠に雪がなかったら、秀吉なんかに負けはせなかったであろう。おれは秀吉に負けたのではない、この峠の雪に負けたのだ」
とこぶしを高く宙にふり叫ぶと、黙って今庄に向かい峠を降りて行った。あれだけ沢山いた兵達も、どこに落ち延びていったのであろうか。峠を越える頃は、勝家に従っていた側近は30名ほどであった。日も西に傾き、今庄を過ぎ府中(武生)に入った頃は日も暮れる頃であった。
前田利家
柴田勝家府中城には賤ヶ岳から一歩先に戦場を捨て逃げ帰った前田利家、利長父子がいた。
天正3年(1575年)越前の一揆を掃討した信長は、柴田勝家に越前一国の支配権を与え、勝家は北庄城を築いたが、府中近辺の今立郡、長条郡と丹生郡内の一部10万石を、不破光治、佐々成政、前田利家の3人に支配させ、柴田勝家の目付けでありまた与力とした。これが府中三人衆で不破光治は竜門寺に、前田利家は街道の東の城(府中奉行所跡)、佐々成政は五分一の小丸に築城して住んでいた。その後前田利家、利長父子は本多館址(現在の市役所敷地)に築城して移り、天正7年には佐々成政は越中砥山に移り、前田利家は天正9年8月17日信長より能登一国に封ぜられ、10月2日府中の領地を返すよう命ぜられていた。それで利家は七尾城主となったのであるが、越中魚津で勝家が上杉景勝と対戦していたので、其の方へ出陣しているうちに、本能寺の変が起こり、七尾城に移る事が遅れていたので、賤ヶ岳合戦の時はまだ利長の領地となった府中城にとどまっていた。利家、利長父子は府中へ帰城すると城内を固め戦闘の準備をしていた。それは柴田方からも羽柴方からも攻められる可能性があった。柴田方からは勝家を裏切って戦わずして退いてきたのであるから、攻められても当然である。また秀吉とは十分の内通もできないまま退いたので、柴田に味方した事を攻められても仕方がなかった。いずれにせよ戦う準備だけは整えていた。そこへ数十名の部下を率いた柴田勝家が立ち寄った。見張り櫓から勝家来るのが伝わると、一瞬緊張した城内も、勝家が30余名の供回りの者だけで、戦う意のない事を知ると、利家も勝家が気の毒になり、直ぐ門を開いて丁重に城内に導き入れた。いかにも疲れたように腰をおろした勝家を見て、利家の臣大井直泰は、
「今のうちに柴田勝家の首をうち、筑前殿に差し出せば新しい道が開けましょう」
と進言すると、利家は即座に
「武士道を知らぬ、たわけ者めが」
と大井直泰を叱りつけた。名案と思って進言した事が利家の不興を買った事に恥じた。大井はこそこそと引退った。勝家は静かに
「今まで負ける事を知らなかった勝家も、この度の戦いには敗れ、お恥ずかしい事ながら北の庄へ腹を切りに帰るところでござる。貴殿には長い間御懇意に預かりつつ何のお返しも出来ず申し訳ござらぬ。貴殿は秀吉とも懇意の仲なれば、今後は勝家への義理は無用でござる。秀吉につき栄達をはかられよ」
今まで見てきた勝家のあの気概はもうどこにも見られなかった。今はただ自分の栄達を心から願ってくれる勝家の暖かい心に触れると、慰めの言葉もなく利家も勝家と共に暗涙を催すのであった。
「この上、累年のご芳情に甘えは心苦しいが、湯漬けを一杯と、屈強な馬を一頭賜るわけには行くまいか」
と言うと、利家もお安い御用と、供の者も皆中に入れ、湯漬けを出すと朝より何も食べていなかった供の者もようやくに腹ごしらえが出来た。
「また北の庄まで5里、お名残りは尽きませぬが、筑前駆けつけぬ間に、一刻も早く御帰城あって勢揃いを致され、利家必ず筑前の兵を一刻も長くここにとどめ置きますれば」
と勝家を送り出した。出かけた勝家は再び引き返し、
「お預かりしていた、貴殿のご息女、勝家必ず安全にお届け申すによりご安心下され」
と言って出た。利家は勝家の元に娘を人質に出してあった。利長は城下の堺まで勝家を見送った。
昨日まで利家は勝家を総大将としていたが、今は全く兵力を失った勝家を哀れと思って丁重に手扱ったのか、まだ勝家を裏切る積もりはなかったので、秀吉の兵を必ずここで食い止めるから、帰城の上たてなおすようにと約束したのかは不明であるが、秀吉の出方次第では一戦も止むを得ないと考えていたのではないかと思われる。
秀吉、府中城に立ち寄る
一方秀吉は、毛受勝助らの決死の奮戦に手間取り、栃木峠を越える頃には日暮れに近かった。椿坂の村中も休むことなく駆け抜けて通り過ぎた。椿坂から椿坂峠を越えるあたりには早咲きの山椿が一面に赤い花を恥らうように着けていた。尾張の田舎から来た兵達であろうか花びらを落し、めしべの付け根から出る蜜をなめながら、歩いていた。幼い頃を思い出したのであろう、栃木峠についた頃は、夜の帳が下りはじめていた。しかし追われる身にくらべ追う方にはゆとりがあった。峠の上まで来ると秀吉から休息の命が出た。兵達はあちこちの木の根に腰を降ろすと、背を持たせかけて、うとうとと眠りかける者もあった。秀吉は馬から降りると甲冑のまま、茶屋の前の床机の上にどっかと腰を降ろした。勝家は顔見知りで心安く思っていたが、はじめて見る秀吉の厳しい姿に、ばあやはおそるおそる例の栃餅と渋茶を持ってきた。
秀吉は気安く「やぁーすまん、すまん」と、栃餅を一つ取りあげて一口食うと、「婆や、この餅は何餅じゃ、今まで食った事のない味じゃ」。秀吉は栃餅を食うのが初めてのようである。ばあやは、
「はい、栃餅というて、この家の栃木の実を入れた餅で、食べていると味が出、その上腹にもよいとてここを通る人達に大変喜ばれています」
と皿の餅をみんな食ってしまうと、また一皿所望して食った。栃餅は秀吉に大変喜ばれたのであろう。秀吉は、輸送係の雑兵が担いできた陣中釜を、前に持ってこさせ、茶屋のじいやを呼ぶと、
「じいや、ご馳走であった。これを礼にとらせるぞ」
と陣中釜と槍一振を、じいやに渡した。そして「さあ行くぞ」と、ひらりと馬に乗った。兵達は大急ぎに仕度して後に続いた。あっけに取られている茶屋の老夫婦を後に、栃の大木の根元の所を下に降りていった。この付近は、柴田勝家が峠を切り開き道をつけるまでは、虎杖(いたどり)崩れといわれた岩崩れの難所であった。この崩れから麓にかけてイタドリが密生していた。柴田勝家は、中河内から今庄までの間があまりにも隔たり過ぎていることから、ここに宿場を作る必要を感じ、板尻村を中心に、あちこちから宿場として必要なものや民家をここに移して虎杖宿を開いたのであった。これが今日の板取である。秀吉がここを過ぎる頃はまだどの家も建てて間もない家ばかりであったが、大兵団を宿泊させるには狭すぎた。
「よし本隊は今庄泊まりだ。先を急げ」
ともうすっかり日の暮れた夜道を、かすかな月明かりを頼りに今庄に着いた。そしてその日は追跡をやめて、ここで一泊した。
羽柴秀吉
前田利家22日朝になり、秀吉は今庄を出発した。賤ヶ岳の疲れを休めた兵達は勝戦さとあって逸りに逸っていた。府中に入った先鋒は一気に府中城に押しかけた。前田利家は秀吉がどう出るか分からないので城内に籠って戦いの準備はしていたので、押しかけてきた兵達に鉄砲を撃ちかけた。そこへ秀吉が入ってくると、この様子に驚いて兵達を後に退かせると、馬標をもった兵一人を前に立て、自分はただ一騎で城に近づいた。これを見て利家は城内鉄砲衆に撃つ事を止めさせた。秀吉は大手門まで馬を乗りつけると、
「筑前守なるぞ、見知りたる者はおらぬか」
と大音声で呼ばわると、矢倉番をしていた、高畠石見守定吉(関ヶ原合戦に西軍加担して入れられず出家する)、奥村助右衛門永福、矢倉より飛んでおり大門の扉を開くと、秀吉門内に入り馬を降りると、
「どうじゃ又左衛門は帰城いたしたか」と屈託ない様子で尋ねたので、二人の者も、
「何事もなく、父子共に帰城仕っております」と申上げていると、そこへ利家も出迎えに来て、
「面目もござりませぬ」という利家の言葉を手で押し払うようにして、「いやいや、其方と我とは年久しく心底隔てなく語る仲、それは他所かましい申しようぞ。武士の習にて敵となり味方となるも時の是非、貴殿に遺恨などござらぬ。そなたが退いて下さればこそ、われもここまで来られたのだ。謝すべきはこの方じゃ。柴田を亡すとも天下の大事を抱えている。これからも頼み申さん。ところでどうであろう、北の庄への案内を頼めないものか」
賤ヶ岳の戦いで柴田方に味方していた事を恨む様子もない秀吉の態度に安心はしたが、何食わぬ顔で、利家に北の庄の勝家の先鋒を言いつける秀吉の狡猾さに、いささか不愉快であったが、今の場合秀吉に従うよりほかなかった。
勝家は利家の恩情を謝し、急ぎ北の庄に帰城すると、利家に約束した通りすぐに人質を利家の元に送り届けるとすぐに籠城の準備をした。当時城内にはまだ3千余人の兵が残っていた。
秀吉は府中城で、利家と和解すると、そこへ利家と同じく戦わずして戦場を離退した金森長近、不破勝光が、人質を入れ詫びを請うてきた。秀吉は両人の降伏を許し、元の領土を安堵した。佐久間盛政の最期
23日には前田利家を先鋒とした秀吉の大軍は北の庄に入って、北の庄城包囲の陣を固めていた。その秀吉の陣営に、がんじがらめに縛り上げられた二人の武将が引かれてきた。一人は大岩山に中川清秀を討った佐久間盛政であった。もう一人は勝家の子柴田勝敏であった。勝敏は勝家の命で21日夜、盛政に、一刻も早く退くよう伝えに行った最後の使者であった。そのまま勝家の元に帰る事ができず、盛政の退陣の兵に混じり、余呉湖畔の戦闘の中に巻き込まれてしまったのであった。
前田利家が、戦場を捨て塩津浜に降りたため、佐久間盛政の兵には後崩れの形となり、更に堂木から押し上げてきた敵兵のため、挟み討ちの形になったので佐久間陣は大混乱となり、武器を捨て四散する者続出した。盛政の声の限りの叱責も、もはや何の功もなかった。この時柴田勝政も戦乱の中に討死したといわれる。勝政の城下勝山市では七本槍の一人脇坂安治に突き殺されたと伝えられているが、確証はない。武家時紀には賤ヶ岳戦後も生き延び、金森長近の元に身を寄せていたが、後秀吉に仕え、文禄元年正月24日には従五位下で豊臣の姓を与えられたと記されている。
これに類した伝え話が西浅井町の八田部の旧家柴田信次さんの家に残っている。「賤ヶ岳合戦に敗れた柴田勝政が追われてきたので、この家では屋根裏に隠まって助けた。この武将が、わしは柴田勝政である。今は敗残の身で何も報いる事ができないので、自分の姓を贈りたい」とて柴田姓をもらった。その頃一般の者は姓を名乗れなかったが、この家は以来柴田姓を名乗ってきたという。単なる言い伝えに過ぎないが、柴田勝政が生き延びたとすればありそうな話である。
佐久間盛政も柴田勝敏も逃亡する兵ばかりで、両人が賤ヶ岳を落ち延びる頃は供の兵は一人もいなかった。盛政は勝敏に対し、「そなたは勝家の子であり使者の役、何も我と死を供にする事はない。父勝家の元に帰るように」と諭したが、勝敏は「かくなりし上は、父の元に帰ろうとは思いません。佐久間殿のおそばで死ぬつもりです」と最後まで盛政につき添っていた。この時盛政29歳、勝政は27歳であった。勝政は盛政の弟であるが勝家から柴田の姓をもらい柴田勝政と名乗っていた。勝敏は柴田勝家の子で実子とも、また養子とも言われている。この時年も12歳とも14歳とも16歳ともいわれているが15歳が真実のようである。
3人の将も、勝政は生死いずれとも知れず、盛政と勝敏の2人は山中をさ迷い、何とか府中まで落ち前田利家を頼り以後の事を考えたいと思った。食うものとてなく昨日より一物も食していない腹には、まだ十分に熟せぬ桑の実で束の間の空腹を満たしつつ、人目を避け、道なき道を歩き続けていたが、無理が重なり、盛政は余呉湖畔で受けた足の傷が化膿し、その痛みで、もう一歩も歩けなくなってしまった。側についている勝敏に、「そなたはまだ歩ける。これ以上わしにかまける事はない。今のうちに父上の元に帰り手柄を立てられよ」と何度もいったが、勝敏は去ろうとはせず、
「もう少しの我慢です。どこか家を探して傷の手当てをしましょう」
と盛政を背に谷を降りると、都合よく一軒の農家を見つけ、声をかけると戸が開かれ一人の農夫が顔を出した。事情を話し、一夜の治療を願うと、百姓夫婦は気味悪く感じながらも、二人を家の中に招き入れてくれた。囲炉裏の側に、盛政を寝かせ、可能した足の膿をしぼり出すと、百姓が出してくれたもぐさで傷口の周辺を焼いた。
「今宵一夜のご無理をお願い申すわけには参りますまいか」
という勝敏の言葉に、百姓は心よく承諾してくれたので、百姓の言葉を疑うこともなく、腰の刀をそばに置き、横になっているうちに、今までの疲れが出て、遂に深い眠りに入ってしまった。百姓はこれこそ名ある大将、捕らえて出せば、いらい恩賞に預かる事間違いなしと考えた。二人が寝静まるのを待って、そっと抜け出し、村の中でも屈強な百姓達12名を呼び集め、何も知らずに寝入っている二人を縛り上げてしまった。百姓と思い油断した事を悔やんだがもはや身動きもできなかった。こうして二人は秀吉の前に突き出されたのであった。盛政と勝敏を秀吉の前に引き立てた百姓達は、一方の旗頭盛政を捕らえたので大変な恩賞に浴せるものと、思い思いに手柄話をした。秀吉はじっと聞いていたが、百姓達の話が途切れると、
「お前達の言う事はそれだけか、よし恩賞を取らせよう。よく聞け、敗れたりといえども昨日までは領主と仰ぎし人を捕らえて敵軍に渡し、おのれの利を得んと功を争い述べるとは、心情にくむべき奴らだ悉く打首といたせ」
この言葉に驚いたのは百姓ばかりでなかった。捕らえられた盛政、勝敏もまた驚いた。今度は百姓達は号泣して命乞いしたが、秀吉は遂に許さなかった。そして手柄を立てた12名の百姓は盛政、勝敏の目前で首を切られていった。秀吉は信長に比し、いつの場合にも情味ある処置をするものだが、この場合12人もの百姓を同時になぜこのような厳しい処置を取ったのであろうか。しかも敵将佐久間盛政の前で。しかしその後の秀吉が盛政にとった処置を見れば、なるほどとうなずくことができる。秀吉は盛政を前に引き出すと、
「その方、この秀吉を軽んじ戦略を誤り敗北したれど、その方の奮戦ぶりは見事であった。修理殿(勝家)の滅亡も目前にあり、これより以後はその方に大国を与え一国一城に主と致さんと思うが、我に力を貸してはくれまいか。」
何事かと、これを聞いていた盛政は、からからと声を上げて笑い、
「今若し、我に一国を与えるならば、何年か後には必ず立場を替え、今の我の如くその方を絡めとるであろう。いかで柴田の恩義を忘れ、その方如きに従うべきや」
と秀吉の頼みを一蹴した。賤ヶ岳山頂に建てられた戦跡碑を読むと、盛政は驕り高ぶる悪将のように書かれているが、盛政は決してそのような人物ではなかったようである。たしかに大岩山陥落後は主君勝家と思いを異にして敗れた。勝家は、進んでは勝ち、勝手は退くという戦略で敵を撹乱して遂に勝利を得るという戦法で、信長から「逃げの柴田」とまでいわれた戦法で幾多の軍功を立ててきた武将である。それに対し盛政は勝家の前進さえあれば、堂木、神明、賤ヶ岳、中之郷の敵が内通してくることに確信を持っていた。両者の思い違いが、いずれの戦略も取りえず、柴田方の敗北となったが、秀吉は盛政の策戦を十分心得ていた。それ故にあれほど無理を押して木之本に転じてきたのであった。盛政のこの策戦といい、賤ヶ岳山頂から見た盛政の退陣の鮮やかさといい、並の武将のなし得る技ではなかった。秀吉はこれらの事から、盛政を非常に高く評価していた。それだけにどうしても自分の味方に引き入れたかったのであろう。
やむなく秀吉は盛政を京都引き廻しの上、山城の槇島で斬り六条河原に曝し首にするよう命じた。それに先立ち柴田勝敏は彦根佐和山城に送られここで首を打たれた。
盛政をいよいよ刑に処するに当り、「何か望みはなきか」と言えば盛政、「大紋、紅裏を付けたる大広袖の白帷子(かたびら)に香を焚き込めて賜りたい。一生の終わりに風流を尽くしたく存ずる」
と願い出たので、秀吉その望みをかなえると、それを着て車に乗った。盛政は身の丈6尺(約1.9m)、面しゃくみて、頬髯刺如く、車中より群がる洛中の貴賤男女を睨みつつ槇島に引かれて行き、最後に硯を借りて「世の中を廻りも果てぬ小車は、火宅の門を出ずるなりけり」としたため、槇島の露と消えたという。秀吉の最後まで盛政を助けんとした努力も空しく終わった。
秀吉はそれだけではなかった。大岩山で討死した中川清秀の跡目として秀政に許したが、秀政は朝鮮における戦いの不手際から、領地没収の処を特に許され、その弟秀成を三代目として跡を継がせ、豊後の岡城(武田市)の移封にした。その秀成に佐久間盛政の娘を娶らせた。秀成は清秀が討死した時は14歳であった。また盛政の娘は、新庄駿河守直頼の養女となっており、名を虎といった。秀吉がいかに盛政を高く評価し、自分の味方に引き入れたがっていたかを知る事ができる。
続く
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