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「地域包括ケアシステム」と「死ぬということ」.
今年度、県からの委託を受けて、私が副会長を務める滋賀県老人福祉施設協議会で「医療と介護をつなぐ看取り研修会」を開催している。これまで、長浜、彦根と2か所で開催し、12月5日に守山市民会館で3回目を開催する。
内容的には、在宅、施設の現場からの看取りの実践報告を、それを受けて 地域包括ケアセンターいぶき センター長 畑野秀樹医師から、実践報告についての感想と「施設・在宅における看取りに関わる 医療・介護職員の役割と連携」と題して、講演をして頂いています。
長浜、彦根の研修を終えて感じたことであるが、もちろん施設等での看取りがなかなか進められていない施設もあれば、積極的にその人が暮らしなれた場所での看取りを積極的に行っている施設、その2つにわかれるというのが感想である。実践発表をしてくれている事業所では、積極的に看取りに取り組んでいるが、その不安についても報告されている。一方で、看取りを通して職員や家族との絆が深まったということも事実である。
畑野医師から「看取りの苦労・工夫」として
・家族への説明する機会を徐々に増やすこと ・家族に「死を受け入れる準備期間を」作ってあげることがとても大切 ・「食べること」は、生きるものの最後の本能であり、「食べられないこと」は死が近づいことを説明 ・胃瘻をした場合の家族の苦労を説明 ・医師から「これでいいんですよ」、「もう十分生きてこられたのですよ」という言葉かけ
以上のことが大事だと教えていただいた。
この中で、介護の現場からできることと、やはり存在として大きいのは医師であるということを感じるのである。医師が、家族にも介護の職員にもこの言葉をかけてくれると、双方がどれだけ心強いか。
そして、「医療・介護従事者の心構え」として
・高齢者の生活を支え、豊かな人生を支援すること ・家族関係の修復 ・思いやりのある若い世代の育成 ・いのちをつなぐ・いのちのバトンタッチ ・・・高齢者だけをみているわけではない ・あたたかいまちづくり
であると教わった。
実践報告でもそうであったが、良い看取りができているところでは、家族との関係が良好で、看取りを実践したことにより、職員が成長したことが報告されている。
つまり、そのことを先生は 「看取りの苦労・工夫」という項目の中で
・介護・看護スタッフの、優しくて落ち着いた対応 ・看取った後に、「よい最期だった」とスタッフ間で共有すること →スタッフの成長につながる ・亡くなった後、家族からの「ありがとうございました」という言葉が介護スタッフを勇気づける
と言われている。
そうなのである。看取りをさらに進めるために、そして介護職員の成長のためには、看取った後が大事で、振り返りをして「よい最期だった」と共有することと、家族が満足して発する言葉がどれだけこれからの看取りの取り組みが進むか、そのことを言われていると思う。
ところで、この2回の研修を通じて、感じたことであるが、昨今、「地域包括ケアシステム」と盛んに言われるようになっている。誰もが住み慣れた地域で、そして住み慣れた家で看取りができるように、サービスを出来るだけ、在宅に届けて、本人の尊厳あるケアをしようというものである。そして、最期は家で亡くなること。
亡くなる本人が望んでいるのは、家での死である。
実は、この大きな阻害要因になっているのが、家族が「死」ということについて、どのように考え、受け止めることができるかである。
ある実践報告の中で、死を迎えようとしている本人を病院に送らないと、「世間体が悪い」と家族や親戚が言ったそうで、病院に駆けつけたケアマネに本人が不満な顔をしたそうです。
家族での介護が全てではありません。介護力が家族にあるかどうかも十分に考えないといけません。 でも、可能ならば、世間体より何よりも大事なのは本人の意志である。
地域包括ケアシステム、お題目は素晴らしい。住み慣れた地域で。
でも、結局それを阻害するのが、「死」というものが病院のものでなく、医療でもなく、自然であるということを家族、住民が自然として受け入れること、そのことが大事なのではないだろうか。
病院は病気を治すところで、死に場所ではない。死ぬということは、100%保証されたこと。それならば、その場所をどこで迎えたいのか決定するのは、本人であるべきなのでは。決して世間体ではない。
口から食べられなくなった時、自然界ではそれは自然と死を意味した。水が飲めなくなったことは、それは自然な死を意味した。いたずらに、死期が近づいている人を点滴で水分を与え、胃瘻をすることが本人に自然で苦痛の無い死を保証しているのだろうか? 否である。
もちろん、治療としての効果を発揮する胃瘻はあるので、胃瘻を全面的に否定するものでもない。 でも、胃瘻でも逆流性の誤嚥性肺炎を起こしたら、それこそ苦しむのは本人である。
最近、イベント的に「死」「看取り」について勉強する研修会が開かれるようになった。それはそれで今までには無い取り組みであるとは思うが、まだまだ一般的にみんなが考えるようなこととはなっていない。
そろそろ自治会単位ぐらいで、「死」について考えるような集まりがあってもいいのではないだろうか。地域包括ケアシステムは介護保険制度の大きな転換である。
介護保険が始まる前、自治体は自治会単位で介護保険制度についての勉強会を開催して、住民の理解を求めた。それでもまだまだ知らない人は知らない。
地域包括ケアシステム、大きな転換であるとするならば、そろそろ「死」「死に場所」、そしてそれを迎えるためには地域に連携の中で何ができるのか、どうすればできるのかを学習する必要があるのではないだろうか。
人間が生まれて、100%保証されているもの。それは「死」である。例外はない。 その「死」がどのように人生の最期で迎えるか、そろそろ真剣に考えてみてはどうだろう。
「これでいいんですよ」、「もう十分生きてこられたのですよ」と納得できる「死」を迎えたいものであるし、保証するべきだと思う。
誰が保証するのか。家族であり、介護職であり、看護師であり、医者であり、その人に関わる人、全てが。もちろん、自分自身もである。
看取りとは・・・納得の死=「よく生きることができた」
このことに尽きるのではないだろうか。
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